○筑摩 松本

   24右  
 岡田へ壱里、浅間の温泉へ十八丁也、松本古名深志、また深瀬とも書す、
 松平丹波守居城にて、七万石を領せらる、城下の町広く、大通り十三
 街、町数凡四十八丁、商家軒をならべ、当国第一の都会にて、信府と称す、相
 伝ふ牛馬の荷物一日に干駄附入て、また千駄附送るとぞ、実に繁昌の地也、
 抑当城は永正の元、島立右近太夫貞永といふ人、井川の城を移して是を築、
 そのゝち大永三年、水上宗浮といふ人[小笠原家の一族なり、]同国仁科より此城に移る、また
 天文二年、小笠原大膳大夫長時林の城より爰に移り給ふ、同二十二年より甲州
 武田家の持城と成て、三十年の間城代にて在番持なり、天正十壬午年、再び
 小笠原右近大夫貞慶入城なり、此砌深志を改て松本と称せらる、
○遍照山光明院[松本入口長沢川の際袖が池の傍ニあり、即馬喰町なり、]
  本尊阿弥陀如来 脇立地蔵菩薩恵心僧都作 浄土宗
 
   (改頁)
 
 此寺ハ松本の駅長倉科何某いまだ駅長たらざりし頃の宅地也
 しが、後一寺となしけるとなり、此地蔵〓ハ石の座像にて、御丈四尺余、そ
 の軽き事一人の力に堪たり、東都中目黒明顕山祐天寺、開山祐天大僧
 正は、即この地蔵の化身にて、遷化の時不測の事どもありしとなり、然
 るに後年祐天寺より頻に競望して延錫なし奏り、其形代として
 祐海上人夢中の御姿を模し当寺に安置せしとなり、
 
 
   (略)
  
  
   26左  
○宮村大明神[城下の辰巳の方にあり、]祭神上諏訪健御名方命
○天満宮[同社に並ぶ、]慶長の頃、小笠原侯鎌田村より爰に天神を勧請して、宮村
 明神の社壇の北に建並べたまふ、大門先に馬場あり、天神馬場と号す、京都
 北野の右近の馬場を摸せしとかや、末社は本社の左右に列して図の如し、
 社内に万商守護神の祠あり、事代主を祭る、此例祭はむかしより正月十一日
 初市立とて、塩をひさく事有、松本より三里程西に一日市場といふ在所
 に、蛭子の社人とて三、四人あり、初市には地蔵清水といふ所にて塩をひろめし
 が[地蔵清水いまハ城内となれり、]今ハ本町二丁目に仮屋を搆へ、神輿を渡し、其床にて天
 神の社人塩をひろむる事を執行ふ、当日未明より初市立とて、遠
 
   (改頁)
 
   28右  
 
 近の貴賎美服を粧ひ、袖を連ねて群参するも、実初春の寿喜なるべし、
 
里老ノ話
 斯有けれバ、越後の大将是を聞、今甲信に塩竭て、万民疲労の虚を討
 むこと、駿相の卑怯仁儀の道に差り、悪むべし/\とて書を甲州に通じ、
 数万駄の塩を甲信両国に融通せしむ、爰に於て、貴賎老若群来り
 て、悦ひ索ること旱天に潤雨を得たるが如し、此先祥を以て、今に至る迄
 毎年睦月十一日の初市には市神の宝前に塩を供へて、群集の諸人
 に賜ふ事とハなりにけるとなむ、
 
 
   (略)
  
  
   30  
大宝山正行寺[東派松本御坊と称す、本堂十二間四面、太子堂、経堂、佐々木堂、鐘楼、寺中四ヶ寺、妙勝寺、玄正寺、芳仙寺、浄信寺]
 当寺開基は親鸞聖人の弟子了智法師なり、俗姓ハ近江源氏佐々木の
 四郎高綱なり、既に武門の業をつぎ、智謀武勇兼備り、平家追討の砌は、
 宇治川の先陣に其名を海内に轟かし、石橋山の戦ひには血戦して勲功を天が下
にあらハす、然共源平の盛衰夢のごとくなるを観じ、終に金剛峯寺に登
 り、出家し、真言密乗の法を修しぬれども、世塵猿猴の情猶忙々しく、妄念
 の闇昏々たり、哀れ真の智識あらバ聞法の益を蒙り、迷ひの夢をさ
 まさんものをと思ひ続る折しも、善因爰に招くにや、聖人の越後国
 に遷謫して、他力易行の法を弘通し給ふよしを聞、遙の野山を分
 け、越乃国府にいたり、聖人に謁し、時機相応の法を聴聞して、立所に
 往生決定の領解を究めたり、此時法名を釈了智と賜ふ、扨建暦
 の元辛未年、聖人越後の国府を立、善光寺へ参籠まし/\て関
 東へ赴き給ふ、了智も是迄供奉せし処に、鸞師の命により、当国に残り、
 
   (改頁)
 
 栗林村におひて草庵を搆へ、一向専念の義を此地に始て弘通せられ、
 終に此所にて往生の素懐を遂られたり、夫より血脈相承して他力易往
 の流益繁昌せり、爰に当府武田信玄持城たりし頃、当山の縁由を聞
 召、栗林一郷除地諸役免許の朱印を賜ハりける、其後文禄の頃石川玄蕃
 頭菩提所となり、栗林より城外六九に移し、後又此所に移さる、石川侯崇
 敬のあまり、同国波田といふ所に殊勝の阿弥陀仏の霊像おはしけるを乞
 求て、当山の本尊と成し玉ふ、又太子堂の本尊は放光の太子とて、其
 濫觴は同国安曇郡丹生子村[当山十三代目浄珍隠居所也、]近所に満仲といふ所あり、其地の
 古木の空穴より出現し給ふとそ、
 
 
   (略)
  
  
   33右  
○源智井[宮村町ニあり、]、井筒亘八尺、高九寸、清泉湧出して当国第一の名水とす、
 松本街中の酒造は尽く此水にて制するなり、殊勝の清水なるゆへ、代々の領
 主より制札を出し給ふ、井戸の制札は稀なりといふ、此辺往古ハ庄内
 宮村といへり、天正年間、小笠原侯再び深志へ入部ありて、御城普請の
 節、宮村の地へも町々を引移し給ふ、其後石川家時代にも御城町家等
 を専ら修補し給ふ、石川家長臣渡辺氏が井水の書札并材木を賜り
 し時の書札などを持伝ふ、源智の子孫今なほ宮村町に住居して
 河辺氏を名乗れり、
 
 
   (略)
  
  
   34右  
 此井水にて製する所の銘酒は○白滝○不入火○松浪○白菊 ○藤浪 
 諸白 其外名産○絞類○真篶籠○羽子板○ひいな○清水の里の紙
 ○登鮭○同鱒○烏川の硯石○生坂莨等みな当地の名産とす、中にも絞類
 ・紙類・莨等諸国へ運送する事夥しといふ、
 
 
   (略)
  
  
   35左  
○竜雲山広沢禅寺[松本東八丁計、林村の山手にあり、]曹洞派、開山は雪〓一純禅師なり、
 
   (改頁)
 
   36左  
 
 寺領十五石諸役免許の地にして、山林竹木伐採ことを禁ず、末寺十三ヶ所、
 当寺は宝徳年間小笠原信濃守従三位中将源政康の草創にて、小笠原
 家松本在城の頃、累世の仁祠なり、浪華戦場に於て、秀政父子討死の
 刻、従士の戦死三十人、戒名俗称を誌して霊位の左右に列したり、其節
 義を感賞のあまりにその俗称を記し、又二百年の遠忌執行の節の文
 あり、
 
 
   (略)
  
  
   38右  
○兎田[広沢寺門前にあり、五六反計の内をいふ、] 里老の話に、むかし長阿弥・徳阿弥 といふ人尋来ま
 せし折から林藤助大に悦び、自ら兎を射取り捧て元且を祝し参ら
 せしが、其後兎田と称して租税免許の地となれり、
 
 
   (略)
  
  
   40左  
○林藤助旧趾[広沢寺門前を北へ山際をつたい五、六丁ばかりにあり、]今ハ民家五軒程あり、又少し北の小高き
 処に石の小祠ありて、注連縄を引栄て御府といふなり、此辺松林にてその
 御府は昔の鎮守なりとぞ、林氏は小笠原家一族なり、
△是より此山脈続て、南へ内田村の牛伏寺までを挙ぐ、此道条を五千石通と
 て、松本より塩尻宿へ出るの閑道なり、旅人ハ通らざれども、霊場の一、二をしる
 す、和泉村茶臼山の麓に芭蕉翁の句碑あり、
    そばはまだはなでもてなす山路かな はせを
○金峯山保福寺[筑摩郡埴原村にあり、禅宗済家京都妙心寺にぞくす、]信濃百番の内四番の札所なり、
  本尊千手観音[聖徳太子御作] 秋葉社[本堂の後に在、] 楼門[本堂の前にあり、]
  稲荷社[客殿後の山手に在、] 鎮守権現[十八丁奥の山上にあり、其辺科の木多し、]
  什物 心経一巻[弘法大師筆] 普門品一巻[唐本] 古画の達磨
  滝見観音[唐画] 十六善神[兆殿司筆] 涅槃像一幅
 
   (改頁)
 
   42右  
 
 当寺開基不詳、数度の焼失にて什宝多く灰燼す、僅に存せる物を記す
 のみ、慶長十九年に小笠原侯より再興にて制札を賜ふ、
  禁制 埴原之郷 保福寺
 一伐採山林竹木事
 一於寺内殺生之事付狼藉之事
 一年寄共無断者致入寺事
 右三ヶ条、違犯之輩有之者、被留置寺中、奉行所江
 可有御理、厳重可申付者也、仍如件、
 慶長寅
   五月十五日    兵部太輔源秀政 花押
○重玉松[客殿の前にあり、冷泉為泰卿和歌及び重玉の銘を賜ひてより、かく呼しなり、猶其銘を板に写して傍に建つ、是より先に為章卿寄題し給ふ和歌一首をも寺伝す、]
 此松高さ一丈五尺、幹の囲八尺余、低枝四方に偃して東西各六尺ばかり、南は殊に長
 うして十一間、北ハ僅に三間に余る、枝節瘤起せるもの五十有余、恰も玉も重るに
 
   (改頁)
 
 似たり、故に此称を得、実に比類稀なる矮古松にして、屈盤する勢さながら臥〓ともいはんか、往来の旅人も迂行と厭ハず、来賞すべし、
 
 
   (略)
 
 
   44左  
△是より八丁程南内田村に牛伏寺とふ霊場あり、[此道筋ハ五千石通とて、松本より塩尻への閑道なり、]
○金峯山牛伏寺普賢院威徳坊[筑摩郡内田村に在り、真言宗、属高野山、]
 
 
   (略)
 
 
   45左  
○当寺境内東西三十余丁、南北十七丁、南ハ牛伏寺川垣外山、北は北沢川流れ
 て、孤山の霊区なり、其堺里閭を距る事三十余町、山に拠り流れに沿て奇
 を抜、秀を鍾て其風致超然として自ら塵外の妙境、神異不測の壮観也、
 太凡寺号を按ずるに、一山巍然として牛の伏るがごとく、又牛額牛か鼻
 等の字あり、所謂讃岐の象頭山の類なるべし、奥の院鉢伏山まて十八町、
 権現の社あり、社頭に掛る所の歌二首あり、不知詠人、
 
 
   (略)
  
  
   47中央  
○白糸の御湯[松本より束十八町にあり、]往昔東間の温泉といひ、又山部の湯ともいひし、
 順抄に[也未無倍]とのせて、古き郷名なり、今ハ其郷失て名のみ残れり、[山部ハ桓武の御
 
   (改頁)
 
 諱の文字を憚りて山家と改たるか、延暦の記に臣子の礼ハ必避君諱、] 和名抄筑摩[豆加万国府]
 
 
   (略)
  
  
   49右  
白糸の温泉を湯の原といひて、今も猶盛に諸国より湯治の人貴賎湊ひて
賑やかなり、又是より北八町程隔て、浅間村に温泉あり、是犬飼の御湯なり、[むかし犬飼氏
領地なりとぞ]寛保二戌年秋八月朔日大風雨洪水して山崩れ、浅間の人家三十余軒を
押出し一村をなす、是を下浅間といふ、此時より上下二村と分る、座敷湯あり、上
浅間に[石川忠介・飯沼源之丞・小柳喜平冶、]下浅間に[二木重次郎・石川善之丞・滝沢屋弥五蔵・赤羽忠兵衛・扇屋源右衛門・二木助右衛衛門・中野屋幸次郎・鶴屋増次郎
・桧物屋仲七・石川屋幾蔵] 皆内湯持なり、此温泉ハ尋常と異り、臭気なく、清潔にして、飯を炊
き茶を煮に風味美しく、功能又著し、遠近の旅客浴の間は宴を催し、花
 
   (改頁)
 
の明仄月の暮戸々に倡哥の声たえず、是も又養生の一助なるべし、
 
 
   (略)
  
  
   53右  
 松本を出て、道を左へ折れ、養老坂を下り、平瀬村の茶店に憩ひ、熊倉の橋を
 渉り.成相新田より穂高村に至る、奥に穂高神社まします、凡六十余州に二百八十五
 座の格社なれバ、善光寺へ詣る人の心あらむは、此宮に参らましやハ、猶其辺の
 名だたる所々を挙て、道の便に是を余情に附録す、
穂高神社[延喜弐神名帳安曇郡大一座穂高神社名神大、同書臨時祭、名神祭二百八十五座之内、穂高神社一坐、]
安曇郡穂高村に座す、奥宮は穂高が岳に在り、此所より行程九里余、本社
奥宮ともに東面なり、
  祭神 穂高見命 [南]石姥女命 [北]瓊瓊杵尊
  天照大神の社[右三社の北に並ぶ、]
 
   (改頁)
 
   54右  
 
  穂高見命御陵[瑞垣の外本社のうしろに在、]末社は廻廊の外北の方に南面に並ぶ、
  八意思兼命 八幡宮 保食神 少彦名神 [以上四柱相殿なり、]
  牛頭天王 子安神 苦宮社 五本杉[いがきの南に在、] 二本杉[大門にあり、]
  天満宮[境外北の方天神原に在、側に高島一翁の筆塚有、] △神宮寺跡[境外南の方にあり、]
例祭七月廿七日 社領むかしハ六十余郷なりしが、今ハ僅に合て十石余也、
社内[東西三丁南北二丁] 大祝[穂高図書・安曇政美・穂高逢殿・安泰重忠] 下社家[丸山新大夫・白沢大和・白沢越後]其外[飯田靱負・村上主殿・宮岡讃岐]
巫女一人 △祭礼の節は氏子より船の形を作りて、色々の美服を
以て是を飾る、これ往古此辺湖なりし時の余波といひ伝ふ、
 
 
   (略)
  
  
   60右  
○穂高嶽[奥岳と云、]は、安曇郡西の方飛騨国に坂合ふ、仰ハ霊岳雲を凌ぎて
 幣帛のごとく、中空に秀て、群山麓に児立す、神号も爰に拠か、嶽
 に三の湖水あり、上池・中池倶に大さ凡径百四、五十間、横二百間ほど、奇
 石岸を繞りて自然の林泉を成せり、魚多くあり、[いわなといふ、]常に筏を浮
 めて杣人等これを漁る、大なるものは壱尺四、五寸計、下池は大さ上
 池の半といふ、石南花池の周に繁茂して、花の色殊に麗しといへり、夫より
 
   (改頁)
 
 東北の広野を神河内といひ、神が平ともいひて柳林なり、湖辺
 に小祠あり、祭にハ木の皮を剥て、枝をもて是を叩き、大鼓の代に
 用といふ、近き頃穂高村の医師高島氏友達に誘引て、彼霊岳
 に登り、其地理を写し、且一章の文を作れり、
 
 
   (略)
  
  
   62中央  
○焼岳ハ常に所々烟立て、寒天も雪を不置、麓に温泉涌出す、熱湯に
 
   (改頁)
 
 して或は笹の葉に米を包み、暫く差置バ飯と成るなり、近来山開けて
 より温泉屋・旅籠屋など出来て、飛騨道の憩場となれり、
○栗尾山満願寺[真言宗高野山竜光院に属す、寺領牧村にて七十七石三斗余、]、此寺ハ山中にて霊区なり、穂高村より
 西へ烏川を渉り、牧村を越、小岩岳の梺にあり、
 
 
   (略)
  
  
   63右  
○若沢寺[上波田村水沢のあり、真言宗京都智積院に属す、]寺領十石、境内囲三里半程、末寺四ヶ寺
  本堂本尊不動明王立像[弘法大師作]観音堂本尊[行基作]
  (御詠歌)
   たのめ人こゝろも清き水沢の流に結ぶ法の誓ひを
寺伝
 信濃国水沢山は、天平勝宝年中行基菩薩の開基にして、大同年中田
 村将軍中興の建立なり、金堂瑠璃殿の正観音ハ行基〓の作、千手観
 音は田村丸の兜の守仏なりといひ伝ふ、疫癘を除け、又は夫婦愛敬
 の願その外万徳の尊容なれバ、一誓に限らず、何事も祈るに応感あらず
 といふ事なし、中堂救世殿の傍に忍ぶ杉といふ大樹あり、此杉男女の縁を
 祈るに験ありとぞ、講堂の阿遮羅王ハ弘法大師の作仏なり、境内に雄鳥
 羽の滝あり、此水に浴すれバ色黒き者純白と成り、醜者容貌麗く成と云、(下略)
 
 
   (略)
  
  
   63左  
○雑食橋[水沢若沢寺より八丁程戌亥の方島々村に在、十三年目に普請あり、]橋長廿間、幅六尺、高十三間、橋杭
 
   (改頁)
 
   65右  
 
 なし、梓川にわたせる橋なり、是を渉りて蛇橋といふ小川の橋を越
 して島々村なり、酒造家などありて、山間の一邑なり、此村の山の中
 腹に三光石あり、長六尺ばかり、巾四尺程、高二尺五寸、色黒く日月星は
 うす赤色なり、日月 の太径五寸程、星は大小有て数十八、九あり、此石
 昔梓川の河原に有しを、島々村徳右衛門といふ者採上て、家の庭に
 置しが、勿躰なしとて今の所へ引上、安置せしと也、
 
 
   (略)
 
 
穂高に帰りて貝梅村の乳川を渉り、狐島にて高瀬川を越し、十日市場・
渋田見・滝沢・林中等を過て、池田宿に至る、是を仁科街道といふ、