天正十三年(一五八五)になり、家康からの再度の沼田引渡し命令を拒絶し、いよいよ徳川軍の攻撃を受けそうになってから、真田昌幸は援軍を得るために上杉景勝に従属する。昌幸の出した誓詞に応えてであろう、景勝が昌幸に誓詞を与えたのは、最終的に昌幸の上杉氏への従属が確定した同年七月十五日のことだった。
それに先立って真田方からは、昌幸の次男弁丸(信繁、幸村)が証人(人質)として越後へ送られた。「景勝一代略記」には昌幸は援兵を乞うにあたり「拙次男弁丸御被官に進上申し、自今以後越国へ在府申すべき由、再三侘び申すに付き」救援してやった、とある。「弁丸」とは信繁(幸村)の幼名、「被官」とは家臣のことである。信繁は実質的な証人だったとはいえ、上杉景勝は信繁に知行地を与え、昌幸が被官として差上げると言ったというとおり、家臣として扱っている。
上杉景勝は、右の誓詞で昌幸に、沼田・吾妻・小県等のほか、「屋代一跡」も給付するとしている。屋代一跡とは、これより前、上杉から離反して徳川家康の下に走った屋代秀正の旧領―現千曲市屋代を中心とする―をさしている。新井白石の『藩翰譜』等には、その旧領三千貫の内千貫文の地を信繁に与えたとある。次の史料はこれに関わるものみられる。
この文書は真田弁丸(信繁)とみられる「弁」が、「左衛門尉」の旧臣諏訪久三に、秀正の出していた証文の通り本領を安堵するなどとしているもの。この後の史料に諏訪久三が「屋代馬上衆」とあるところよりみても「左衛門尉」とは屋代左衛門尉秀正とみてよい。上杉景勝の起請文(きしょうもん)が記す内容、および『藩翰譜』等の記すところと、この文書の内容とは合致することからみても、この「弁」とは真田弁丸(信繁・幸村)とみて間違いない。
七月に出された景勝の起請文よりは前の文書である。しかし、これは、徳川軍の来襲が必死の情勢の下、交渉妥結の前に弁丸を越後へ証人として送った事実を物語っている、とみてよいだろう。
従来『信濃史料』等では上杉方の海津城将須田満親が、八月末に昌幸の重臣矢沢頼幸に出した書状にある「今度御証人として御幼若の方越し御申し、痛み入り存じ候」が信繁(幸村)の人質としての送付のこととされてきた。しかしこの「御幼若の方」とは、書状の内容を素直に読めば、宛名の矢沢の子か弟であったとみられる。信繁は通説では永禄十年(一五六七)、一説には同十三年生まれという。天正十三年時点では、数えで十九か十六になる。まだ元服前で「弁丸」という幼名を名乗っていたとは言え、立派な若者であり「幼若(弱)」とは言えない。なお、これに先立つ天正十年七月、昌幸が北条氏に従属した際にも、やはり矢沢は北条方へ証人を送り、井上(須坂市)で千貫という宛行状を発給されている。
右の「弁」発行文書は、従来ほとんど注目されないできた。しかし、ここでみたように、これは真田弁丸(信繁、幸村)安堵状とみて間違いない。第一次上田合戦(神川合戦)直前の状況、真田氏の上杉氏従属の経過を物語る貴重な史料であるとともに、確かなものはごく少ない信繁の出した文書として大変興味深いものでもある。
ところで、矢沢頼幸も真田信繁に随行して越後へおもむいている。そして、この二人とも第一次上田合戦直前には徳川軍と戦うべく一旦上田へ帰ったとみられるのである。その一時帰国の証人として、矢沢は「幼若」の子(息子か弟)を海津城へ出したのではと考えられる。この合戦の前後に信繁の母(昌幸の妻)が海津城にいたことも知られる。これは信繁のやはり一時帰国の臨時の証人としての意味合いもあってのことではなかったかと思われる。