3月1日大和守は江戸を出発して、上州(群馬県)を通り、同7日高遠城へ着いた。すぐに到着のお礼書を出した。3月26日金150両を金蔵へ納められた。
閏3月1日安政から万延と年号が変わった。
同月5日老中たちが名を連ねた書が来て、6日大和守に御用があるので、代理の者を登城させるようにと書かれていた。
同月6日大和守の代理として内藤甚十郎が登城したところ、御朱印をいただいた。
同月11日大和守は駿河守と名前を改め、願書を使者に持たせて老中へ差出したところ、即日聞届けられた
同月9日松平右京亮宅へ留守居が御呼び出され、領知目録を渡された。
駿河守は初めて帰城するとすぐに、重職と相談して、「我藩は阪本天山以後文武隆盛にならないが、
【(付箋) 学校演武場がない。これまで藩士の中で学者と言われる人々は、各自の家において近くの子弟を召集して、読書・筆学を教え自分で歴史の講義をし、優等な生徒には輪講をさせていた。これは興国の基礎である。」と言った。】
学校演武場がない。学校演武場は興国の基礎で藩士を養成することである。藩士を養生することは、文武を奨励するより先である。」と言った。
そこで決心して3月28日老職の岡野小平治に文武総裁を命じ、郭内三ノ丸の住居の内藤某をほかに移し、その邸宅を文武場とした。これを進徳館と命名し、あちこちに散らばっていた文武場を合わせ、子弟を養成しようと考えた。すぐに文武の師範を命じたが、それは左のとおりである。
【(付箋)進徳館開設以前に高遠藩士で学術に優れた者を、およそ列記した。】
文学師範 中村中蔵
同 海野喜左衛門
筆学師範 荒木兵蔵
同 浅利力太
同 奥谷源左衛門
弓術師範 野木要人
同 岡野宗八郎
馬術師範 原 三平
同 高田重四郎
調馬場は郭内二ノ丸の外で、外馬場・小原村・桜馬場の三か所があった。
槍術師範 菅沼伝一郎
剣術師範 大矢貫治
砲術師範 阪本孫四郎
同 北原所左衛門
同 栗栖新弥
発砲所は花畑・大北村・日影林・六道原・城山の各所にある。
軍学師範 藁科勘左衛門
体術師範 小嶋治左衛門
荒木流師範 伊藤文左衛門
又文武に特に優れた者を選んで、助教や世話掛を命じ、駿河守は老職以下群臣を率いて進徳館へ来て、開場の式をした。そこで藩士たちに向かって言ったことは、「文武場を設けたいという前代からの願いを受け継いで、今回三ノ丸へ文武場を設け、それぞれ師範を申付けた。それは藩士たちに忠臣の道を中心として、儒学の本意を失わず実学を専らにすることを心懸る様にして学んでほしいと考えたからだ。それをよく弁えてしっかり勉強し、平常の行いも礼儀を正してほしい。若い者たちは勿論のこと年の大きい者たちも、有用な人材になってほしいと考える。そこでまずは経学を専らに講習するとともに、その他は力に応じて歴史等も広く学び、詩作や文章迄も研究してほしい。又国家有事の日がいつ来て出陣になるかわからないので、常々から武術を磨いて武功を立て、藩の名前を穢さないように心掛けてほしい。」ということである。
進徳館に聖廟(せいびょう)を設けて聖像を安置することとし、孔子(こうし)の像はすでにあるので、顔子(がんし)・曽子(そうし)・子思(しし)・孟子(もうし)などの像を作って安置した。春秋に供え物をして祭りを行い、駿河守は群臣を率いて参拝するとともに、領内外の人々に参拝をさせ、神酒・赤飯を与えた。進徳館では1か月に数回中村中蔵・海野喜左衛門に経書を講義させ、みんなで聞き入った。又駿河守はしばしば演武場に出かけて、藩士の武術を参観した。
進徳館中学規及生徒訓條諸則
一文武忠孝の道を怠らないこと
一朋友との交流は信義を失わないようにすること
一年長者を敬い、若い者をいつくしむこと
一言葉を慎み行儀正しくすべきこと
一政務を批評しないこと
一うわさを聞き彼是評議をしないこと
一師弟の間親愛を主とすべき事
一貴賤をあれこれ言ったり人物の可否を言ったりしないこと
一実学を専らにすることを心がけるべきこと
一課程を定めて相互に励むべきこと
一互に流派を争うことをしないこと
一書生は誠実に切磋琢磨して励むこと
一教授方の教えに反対をしないこと
一書籍を乱暴に取扱わないこと
一火の元は特に念を入れること
一手習いは軽はずみに写さないこと
一習礼方の教えはふだん忘れないこと
一座席の順序を変えたりしないこと
一贔屓(ひいき)をしたり偏った取扱いをしたりしないこと
一余分な雑話をしないこと
右の條々をお互いに確実に守ること
申三月
進徳館では席次は年長者が上となる。駿河守は蔵書6630余部を出し、これを進徳館に備えさせた。