- 『小学理科生徒筆記代用』一
- [目録]
- 『小学理科生徒筆記代用』二
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- 『小学理科生徒筆記代用』三
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- 『尋常小学理科児童筆記代用』巻一
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- 『尋常小学理科児童筆記代用』巻二
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- 『高等小学理科筆記帳』
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『小学理科生徒筆記代用』と信濃教育会
明治三十六年(一九〇三)四月、「小学校令」の一部改正で「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スル」ものとされ、国定教科書制度となった。しかし、理科・体操・裁縫・手工・尋常小学校唱歌は教科書を採用しないこととした。理科は実験・観察にもとづく授業が中心で、教科書の記述に過度に頼る授業になることを避けたのである。
授業の手がかりが何もなく、生徒にすべて筆記させることは、かえって負担を増大することになるため、教科書ではないが教科書の代わりになるものとして「生徒筆記代用」書が必要であった。三十七年五月、信濃教育会は、顧問二人・委員四人・調査委員一人からなる小学校児童用理科書の編纂委員会を立ち上げ、小学校理科書の編纂に取り掛かった。
それまで長野県で採用されてきた理科教科書は、おもに東京付近に適合するように編集されていたため、「すでに気候の異なるあり、したがって其材料の季節に適合せざるもの多きは、免るべからず。また生業の異動あり、其実業に関する者に於て、本来軽重の宜しきを得ざるある」などと、その問題点が指摘されていた。
編纂委員会は信濃教育会各部会から、理科書編集について意見や希望を集め、①今までの教科書の欠点、②必要であるが選択から洩れている材料、③削除したほうがよい材料、④前後の順序を改めたほうがよい材料について明らかにした。各部会からの意見も参考にしながら、わずか数ヶ月という短い期間に編集を終え、三十八年三月、『小学理科生徒筆記代用』(高等科用四冊)と教師用書『小学理科教授細目』四冊を出版した(明治四十四年から『理科筆記帳』、大正十年(一九二一)から『理科学習帳』となる)。
編集については「自然界に於ける生活共同体としての考察より、動植物其他の自然物を説明」(生物)し、「自然力の征服及利用に着眼し、実用上の見地に重きを置きて、理化学上の事実を説明」(物理・化学)したと述べている。内容では、高等科二年に「桑・蚕」の項がある。桑の根・茎・葉の形状や栽培方法、病虫害について学ぶようになっている。また、蚕については卵・幼虫(蚕)・蛹・成虫(蛾)の変化が図示され病害虫についても学習するようなっていて、「生糸及蚕卵紙は我県の名産」であると結んでいる。明治三十年代蚕糸業は産業革命を迎えており、長野県の産業や農家の生業とも関連して、『小学理科筆記代用』は編集されていたのである。
昭和二十五年(一九五〇)、「メンデルの法則」再発見五〇周年記念行事が開催された。その際東京大学図書館で資料が展示され、大正六年三月発行の『高等小学理科筆記帳』(第一学年)(修正再版)が、小学校で遺伝教材を取扱った最も古いものとして説明されていた。
この「メンデルの法則」を教材として理科筆記帳へ掲載することに尽力したのは、大正五年三月に理科筆記帳の修正委員に加わった長谷川五作である(当時は埴科郡松代小学校勤務)。長谷川は埴科郡杭瀬下村出身で、長野師範学校第二種講習科修了後、県下の小学校教員となった。八年に文部省検定試験(植物科)に合格し、愛知県女子師範学校をへて十二年に長野県屋代中学校に転勤している。
彼は明治四十二年、上高井郡川田小学校時代にムギ・エンドウの交配実験を実施した。エンドウは丈の高い白花種に丈の低い紅花種を交配し、F1が実った。これは長野県におけるメンデルの遺伝法則の追試験の最初の成功であった。わが国において遺伝学の実験に本格的に取組まれはじめた頃、すでに長谷川はその実証実験に成功していたのである。大正三年二月に『信濃教育』(三二八号)に「メンデリズムと其の実験」を発表している。
大正六年三月発行の『高等小学理科筆記帳』(第一学年)の「遺伝・変異」の項では、「黄繭と白繭の雑種」、「豌豆の雑種」の図とメンデルの肖像を掲載し、四点にわたって説明している。
一、生物には遺伝と云ふことがあって親の形質は子に伝はり更に孫に伝はる。此遺伝の素(モト)は細胞の核に含まれてゐる。
(中略)
四、二つ以上の形質の異った親から雑種を作ると、元の親と形質の異った新しい雑種が出来る。例へば豌豆で白花長茎のものと、紅花短茎のものとを掛合せると、雑種第一代では皆紅花長茎のものであるが、其第二代には紅花長茎・紅花短茎・白花長茎・白花短茎の四種を生ずる。此中白花短茎のものは全く新しい形質で、よく子孫に遺伝する。
さて、先に述べた『高等小学理科筆記帳』の資料展への紹介は、当時東大教授・遺伝学者であった篠遠喜人(長野県出身・後に国際基督教大学長)が関与していた。昭和二十三年山崎林治(信濃生物会長)宅の書架で『高等小学理科筆記帳』を目にとめた彼は、これを東京へ持ち帰り出展したのである。『長谷川五作先生著作選集』(昭和四十三年)に「長谷川五作先生をたたえる」の一文を寄せ、「一九六五年は、メンデルがその法則を発見して一〇〇年にあたりますので、(中略)「遺伝学のあゆみ」が単行本として出版されることになりました。私は、その中に、日本の遺伝学の夜あけを加えるにあたり、長谷川先生のことを記し、お写真をのせて、先生にたいする敬意のしるしとしました」と述べている。
明治三十六年(一九〇三)四月、「小学校令」の一部改正で「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スル」ものとされ、国定教科書制度となった。しかし、理科・体操・裁縫・手工・尋常小学校唱歌は教科書を採用しないこととした。理科は実験・観察にもとづく授業が中心で、教科書の記述に過度に頼る授業になることを避けたのである。
授業の手がかりが何もなく、生徒にすべて筆記させることは、かえって負担を増大することになるため、教科書ではないが教科書の代わりになるものとして「生徒筆記代用」書が必要であった。三十七年五月、信濃教育会は、顧問二人・委員四人・調査委員一人からなる小学校児童用理科書の編纂委員会を立ち上げ、小学校理科書の編纂に取り掛かった。
それまで長野県で採用されてきた理科教科書は、おもに東京付近に適合するように編集されていたため、「すでに気候の異なるあり、したがって其材料の季節に適合せざるもの多きは、免るべからず。また生業の異動あり、其実業に関する者に於て、本来軽重の宜しきを得ざるある」などと、その問題点が指摘されていた。
編纂委員会は信濃教育会各部会から、理科書編集について意見や希望を集め、①今までの教科書の欠点、②必要であるが選択から洩れている材料、③削除したほうがよい材料、④前後の順序を改めたほうがよい材料について明らかにした。各部会からの意見も参考にしながら、わずか数ヶ月という短い期間に編集を終え、三十八年三月、『小学理科生徒筆記代用』(高等科用四冊)と教師用書『小学理科教授細目』四冊を出版した(明治四十四年から『理科筆記帳』、大正十年(一九二一)から『理科学習帳』となる)。
編集については「自然界に於ける生活共同体としての考察より、動植物其他の自然物を説明」(生物)し、「自然力の征服及利用に着眼し、実用上の見地に重きを置きて、理化学上の事実を説明」(物理・化学)したと述べている。内容では、高等科二年に「桑・蚕」の項がある。桑の根・茎・葉の形状や栽培方法、病虫害について学ぶようになっている。また、蚕については卵・幼虫(蚕)・蛹・成虫(蛾)の変化が図示され病害虫についても学習するようなっていて、「生糸及蚕卵紙は我県の名産」であると結んでいる。明治三十年代蚕糸業は産業革命を迎えており、長野県の産業や農家の生業とも関連して、『小学理科筆記代用』は編集されていたのである。
昭和二十五年(一九五〇)、「メンデルの法則」再発見五〇周年記念行事が開催された。その際東京大学図書館で資料が展示され、大正六年三月発行の『高等小学理科筆記帳』(第一学年)(修正再版)が、小学校で遺伝教材を取扱った最も古いものとして説明されていた。
この「メンデルの法則」を教材として理科筆記帳へ掲載することに尽力したのは、大正五年三月に理科筆記帳の修正委員に加わった長谷川五作である(当時は埴科郡松代小学校勤務)。長谷川は埴科郡杭瀬下村出身で、長野師範学校第二種講習科修了後、県下の小学校教員となった。八年に文部省検定試験(植物科)に合格し、愛知県女子師範学校をへて十二年に長野県屋代中学校に転勤している。
彼は明治四十二年、上高井郡川田小学校時代にムギ・エンドウの交配実験を実施した。エンドウは丈の高い白花種に丈の低い紅花種を交配し、F1が実った。これは長野県におけるメンデルの遺伝法則の追試験の最初の成功であった。わが国において遺伝学の実験に本格的に取組まれはじめた頃、すでに長谷川はその実証実験に成功していたのである。大正三年二月に『信濃教育』(三二八号)に「メンデリズムと其の実験」を発表している。
大正六年三月発行の『高等小学理科筆記帳』(第一学年)の「遺伝・変異」の項では、「黄繭と白繭の雑種」、「豌豆の雑種」の図とメンデルの肖像を掲載し、四点にわたって説明している。
一、生物には遺伝と云ふことがあって親の形質は子に伝はり更に孫に伝はる。此遺伝の素(モト)は細胞の核に含まれてゐる。
(中略)
四、二つ以上の形質の異った親から雑種を作ると、元の親と形質の異った新しい雑種が出来る。例へば豌豆で白花長茎のものと、紅花短茎のものとを掛合せると、雑種第一代では皆紅花長茎のものであるが、其第二代には紅花長茎・紅花短茎・白花長茎・白花短茎の四種を生ずる。此中白花短茎のものは全く新しい形質で、よく子孫に遺伝する。
さて、先に述べた『高等小学理科筆記帳』の資料展への紹介は、当時東大教授・遺伝学者であった篠遠喜人(長野県出身・後に国際基督教大学長)が関与していた。昭和二十三年山崎林治(信濃生物会長)宅の書架で『高等小学理科筆記帳』を目にとめた彼は、これを東京へ持ち帰り出展したのである。『長谷川五作先生著作選集』(昭和四十三年)に「長谷川五作先生をたたえる」の一文を寄せ、「一九六五年は、メンデルがその法則を発見して一〇〇年にあたりますので、(中略)「遺伝学のあゆみ」が単行本として出版されることになりました。私は、その中に、日本の遺伝学の夜あけを加えるにあたり、長谷川先生のことを記し、お写真をのせて、先生にたいする敬意のしるしとしました」と述べている。