明治初年にミルン、モース、ブラキストンらの外国人が函館におもむいて貝塚や遺跡を調べ、日本の先住民族を論じているが、函館には直接外国人の影響を受けて研究する人は現われなかった。外国人の研究資料が函館博物場に寄贈されたり学問的な影響を受ける機会がなかったわけではないのであるが、石器や土器を収集するのは一般には好事家のすることだと思われていたのである。ミルンやモースらがどういう発掘をしたかについては記録がないが、明治時代函館で活躍した写真師田本研造の弟子に井田侾吉という人物がいて、彼がミルンと共に函館公園の遺跡を発掘した時の話が伝えられている。「ひようたん池」のかたわらでミルンがステッキで円を描き、人夫に命じて掘らせたところ、完全な土器が出てきたので、見学者はこの外国人は不思議な人物だと驚嘆したという。井田は玄武丸で開拓使の委員やミルンと千島にも同行しており、ミルンが千島アイヌを調査した際にシュムシュ島で撮影した写真や英文の報告書にある写真は彼の手になるものと思われるのであるが、不思議なことにその後の彼のことについてはほとんど知られていない。
明治42年2月、私立函館図書館(現市立函館図書館の前身)の岡田健蔵館長に対し、馬場脩が函館考古会の設立を提唱し結成した。この会は函館中学校の学生が中心になっていたもので、高大森(現在の高盛町、日乃出町)の砂丘(通称砂山)、旧岩船家別荘(現在の見晴公園)、湯倉神社裏の湯川貝塚、戸井の熊別川などを巡り歩き、遺跡の分布調査を行っている。この会が結成された動機は色々考えられるが、このころは『函館区史』の編さんが進められていて、考古学、民族学にも造詣の深かった河野常吉が来函中であったことも動機の一つであった。明治44年7月刊行の『函館区史』には、次のように遺跡についての説明があり、早くから遺跡の存在が確認されていたことがわかる。
「安政中箱館奉行が美濃の陶工豊次なる者を移し、窯を谷地頭に造らん為め斜崖を掘崩せし時、数多の土器及び石器を出せりと云ふ。今日に於ては住吉町の南部墓地の辺は種々の器物に富み、同町の北部なる住吉神社附近は土器片及び錘石多く、此両処は好奇の士が杖を曳きて採拾を試むる所なり。(中略)(貝塚は)アサリ坂 青柳町より蓬莱町へ降る坂 及び(函館)公園の前住吉町の道路の東にあるもの顕著なり。其他谷地頭に二、三の小貝塚あり。(中略)チャシコツは蝦夷語にして、チャシは砦、コツは跡の義なり。谷地頭より稍々登りたる函館山の半腹字水元にあり。又蝦夷館と称す。」