「庭訓往来」
しかるにこのころから、いまの渡島半島沿岸には、相次いで諸館が築かれて群雄割拠するに至り、その交易のあり方もこれまでの十三湊中継型に代って、蝦夷地から直接若狭方面への交易に発展していった。すなわち、元弘4(1334)年の著といわれる『庭訓往来(ていきんおうらい)』によれば、全国特産物の1つとして、宇賀の昆布・夷の鮭が挙げられている。宇賀昆布とは、いまの函館市銭亀沢のウンカ川付近に産したもので、この地は昆布の産地として有名であり、のちに志海苔昆布として知られるようになったのも、この地方のものである。そしてこの昆布は、すでに足利時代には若狭の小浜で加工され、若狭昆布と名付けられて諸国に販売された。このようなことから『新羅之記録』によれば、永正年間(1504~1520)には、「宇須岸(箱館)全盛の時、毎年三回充(ずつ)若州より商舶来り、此所の問屋家々を渚汀に掛造りと為して住む、依て、纜(ともづな)を縁の柱に結び繋(つな)ぐなり。」とみられ、箱館には問屋が海岸に軒をならべ、若狭から毎年定期的に商船が来て荷役していることを伝えている。かくて良港をかかえた箱館は、後背に志海苔・宇賀昆布をもって代表する産地をひかえ、「若狭を結節点とする日本海商品流通圏の最北端に位置づけられることによって、かなり発達した商業都市、港湾都市へと成長しつつあったことが、かなり明瞭に読みとれると思う」(海保嶺夫著『日本北方史の論理』)というのも、まことに適切な指摘である。