さいわい亀田、箱館地方には、何ら直接の戦禍はなく終わっているが、しかし人心はすこぶる恟(きょう)々たるものがあり、津軽藩でも援兵を出して、福山(松前)を守って松前藩の後詰をした。その間、隠密牧只右衛門、秋元六左衛門の2人に命じて各地に派遣し、蝦夷地の実情を探索して書きつづったのが『津軽一統志』である。それによって当時の亀田、箱館の状況を挙げれば、次の通りである。
一 亀田 川有 澗あり 家二百軒余 古城有 一重塀(堀)あり |
一 箱館 澗有 古城有 から家あり |
一 弁才天 |
一 亀田崎 |
一 しりさっぷ 小船澗あり 家七軒 |
一 大森 家十軒 但から家あり |
一 湯の川 小川有 家八軒 |
一 しのり 澗あり 家二十四、五軒 から家有 |
一 黒岩 家七軒 |
一 塩泊 川有 狄おとなコトニ 但ちゃし有 家十軒 |
一 石崎 家十軒 |
一 やちまき 狄おとなコトニ持分 家十三軒から家也 |
一 たか屋舗(敷) 家六軒から家也 |
これによれば寛文9年ころ、亀田は200余戸の大集落をなし、その古城というのは亀田番所の誤りではないかと『函館区史』は指摘している。また箱館のから家とあるのは出稼小屋を指しているもので、そのほか多少の住民もあったと思われ、この古城は河野政通の館址である。「しりさっぷ」は尻沢辺でいまの住吉町付近に当り、大森浜や湯の川にも漁家があり、志海苔は、さすがに多く和人はすでに汐泊から小安(おやす)まで住居しつつあった。しかし、この地方の中心はやはり亀田で、ここには松前家の祈願所八幡社をはじめ、寛永10年5月、僧芳龍の創建にかかる国下山高龍寺(曹洞宗)や、正保元(1644)年僧圓龍が阿弥陀堂として建て、元禄3年に寺号公称された護念山摂取院称名寺の2刹(さつ)があって、その繁栄の過程を物語っている。