寛文の蝦夷乱と亀田・箱館

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 寛文9(1669)年夏、日高染退(しぶちゃり、静内)の酋長シャクシャインが蜂起し、各地において和人270余人を殺戮するという騒乱があった。その原因はいろいろ挙げられるが、要は和人に対する積年の不満にあった。松前藩では直ちに幕府に報告するとともに、士卒を国縫(くんぬい)に送って内偵し、酒井左兵衛に雑兵200を率いさせて亀田を守らせた。時に藩主矩広は、いまだ幼少で到底軍を指揮することができなかったので、幕府は矩広の従祖父松前八左衛門に命じてこれを討たせ、そして知将佐藤権左衛門をもって長万部に降伏させた。更に権左衛門は進んでピポク(新冠)に至り、シャクシャイン一味を誘降し、和議を祝すと称して酒を与え、その酔ったところをうかがって、巨魁14名を謀殺して平定した。それは寛文9年10月23日夜のことであった。
 さいわい亀田、箱館地方には、何ら直接の戦禍はなく終わっているが、しかし人心はすこぶる恟(きょう)々たるものがあり、津軽藩でも援兵を出して、福山(松前)を守って松前藩の後詰をした。その間、隠密牧只右衛門秋元六左衛門の2人に命じて各地に派遣し、蝦夷地の実情を探索して書きつづったのが『津軽一統志』である。それによって当時の亀田、箱館の状況を挙げれば、次の通りである。
 
一 亀田 川有 澗あり 家二百軒余 古城有 一重塀(堀)あり
一 箱館 澗有 古城有 から家あり
一 弁才天
一 亀田崎
一 しりさっぷ 小船澗あり 家七軒
一 大森 家十軒 但から家あり
一 湯の川 小川有 家八軒
一 しのり 澗あり 家二十四、五軒 から家有
一 黒岩 家七軒
一 塩 川有 狄おとなコトニ 但ちゃし有 家十軒
一 石崎 家十軒
一 やちまき 狄おとなコトニ持分 家十三軒から家也
一 たか屋舗(敷) 家六軒から家也

 
 これによれば寛文9年ころ、亀田は200余戸の大集落をなし、その古城というのは亀田番所の誤りではないかと『函館区史』は指摘している。また箱館のから家とあるのは出稼小屋を指しているもので、そのほか多少の住民もあったと思われ、この古城は河野政通の館址である。「しりさっぷ」は尻沢辺でいまの住吉町付近に当り、大森浜湯の川にも漁家があり、志海苔は、さすがに多く和人はすでに汐から小安(おやす)まで住居しつつあった。しかし、この地方の中心はやはり亀田で、ここには松前家の祈願所八幡社をはじめ、寛永10年5月、僧芳龍の創建にかかる国下山高龍寺(曹洞宗)や、正保元(1644)年僧圓龍阿弥陀堂として建て、元禄3年に寺号公称された護念山摂取院称名寺の2刹(さつ)があって、その繁栄の過程を物語っている。