さて、それでは、このころの問屋以外の箱館市中商人の動向はどうであったかについては、いまのところ、当時どのような商人たちがおり、またどのような商売を営んでいたものか、もちろんはっきり知ることはできないが、享和3(1803)年、臼尻の新鱈売買の請負を行った商人の名前をみると、浜田屋兵右衛門、長崎屋半兵衛、和賀屋宇右衛門、高田屋金兵衛、秋田屋甚作、亀屋武兵衛、辰巳屋七郎兵衛、井筒屋喜兵衛、浜屋次兵衛、東屋善三、近江屋清六、越前屋七五郎、山口屋太次兵衛、亀屋喜惣二、越後屋善吉、能登屋惣十郎、吉崎屋五右衛門、伊倉屋太三郎など18人で、その多くが問屋・小宿などの特権商人であり、一般の市中商人は非常に少なかった。
ところが、文化10(1813)年、市中商人が市中船持衆と共同で、その請負方を願い出た文書には、地蔵町惣代秋田屋専右衛門、能登屋惣十郎。内澗町惣代相原屋喜之丞、藤屋与三郎。大町惣代能登屋久太郎、越後屋新五郎。弁天町惣代倉部屋太兵衛、高橋屋伝之助。仲町・神明町・大工町惣代伊藤屋弥吉、越前屋藤二郎。山上町惣代桝屋定吉、盛屋武八、高田屋与惣兵衛。大黒町惣代能代屋右五郎、塩越屋原吉、但馬屋半四郎などの各町内惣代の商人名がならび、そのあとに能登屋惣十郎、長崎屋半兵衛、高田屋金兵衛、亀屋武兵衛、井筒屋喜兵衛、吉崎屋五右衛門、浜田屋兵右衛門、和賀屋宇右衛門、辰巳屋七郎兵衛、浜屋次兵衛、東屋善三、伊倉屋太三郎、亀屋喜惣二、越後屋善吉、越前屋七五郎、山口屋太次兵衛、近江屋清六、秋田屋甚作などの名が見られる。(『文化御用留』)
これによると、後者の18人は従前からの問屋を含む船持商人であろうが、前者の16人は少なくとも特権商人以外の市中商人と見られるから、この期にはかなりの程度まで市中商人が成長しつつあったというべきであろう。