場所請負制、沖之口制の継続

95 ~ 100 / 1505ページ
 蝦夷地の産業・経済のしくみのなかで基幹をなす場所請負制、沖之口制が、幕領化にともなう諸施策のなかで、どのように扱われるかは、極めて重大なことであった。安政元(1854)年5月から閏7月にかけて蝦夷地、北蝦夷地をまわって調査した堀利煕村垣範正の報告などを通して具体的な扱いが決まってくるが、問題を指摘しつつも旧制を維持、継続して行くことになって行くのであった。
 場所請負制については、安政元年の調査にもとづく堀、村垣連名の「松前竝蝦夷地惣体見分仕候見込之趣大意申上候書付」(「蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類」『新撰北海道史』史料1、以下「書類」と表記)では、その廃止という意見は述べていなかった。しかし、山林、海浜や「夷民」の進退まですべてまかされた「請負商人」が、「漁利」のみを求めて「夷人」を「非道」につかい、「姦計」をもって「夷人を欺き」、「惨刻之扱ひ方」が多い、と指摘し、片言の「和語」で訴える「夷人」が各地に居て、この様子を実地に見聞しては、とても捨て置くことはできない、と述べていて、江戸でも、この報告では、場所請負制は、廃止しなければならない、と意見具申をしているのだと受けとったようである。「織部正淡路守廻浦之上申聞候通り蝦夷地請負之ものは相止メ手捌ニ取計、運送船は勿論、鯨漁船等打立漁事専らにいたし、右収納を以て開墾入用江振向け、其外金銀銅鉄問堀(間掘)石炭稼等十分世話いたし」(『幕外』15-95)-調査にもとづく意見に従って請負制は廃止し、直営の漁業で利益をあげ、開拓や鉱産資源の開発にかかる資金まで確保しよう、という考え方もとられていたのである。
 しかし、場所請負制廃止は、おこなわれなかった。堀の名前で書かれた、安政元年12月進達の文書では、「是まで之通支配人へ相任せ置、運上金取建候」つもりであるとし、従前どおりの請負制を考えていた(「蝦夷地上地之儀ニ付大略申上候書付」-「書類」所収)。廃止できない理由は、直営のための資金が多く必要で、あとで利益が出せるとしても、はじめのうちは、相当な出金が必要となる、というものだった。それで、従前どおりに運上金が徴収できる体制をそのままにしておこうと考えているわけである。この文書には、老中伊勢守(阿部正弘)が「蝦夷漁業稼方之儀は、是まで之通り支配人へ任せ置、運上取立支配向ニ而撫育方進退致し、三五年相様し候儀等見込之通可取計候」-従来どおり運上金を取立てるしくみをとって行くように取はからってよい、と記している「覚」(安政2年3月27日に村垣へ渡したとされている、前出「書類」)が付されているので、幕府の中央でも、請負制の継続を、蝦夷地幕領化の実施(安政2年2月)にあわせ、最初からみとめていったことになるのである。
 沖之口制についても当初の大きな制度変更の考え方が、のち改められて、ほぼ従来どおりとなって行くのであった。
 安政元年12月に、堀が示していた「船改」のしくみは、西蝦夷地~松前・江差方面について重大な変更をふくむものであった。「是まで西蝦夷地産物積取候船々之儀は、江差湊にて船改致し候へ共、同所私領之儘被差置候見込ニ付、別段船改所御取建無之候而は御不締ニ付、ヲタスツ之儀は、東西竝ニ箱館辺より之便利も宜敷御座候間、同所へ御取立有之調役以下定詰ニ而諸事取計為致候様可仕奉存候」(前出「書類」)-西蝦夷地の産物を、本州方面に積出して行く途中、江差や松前の沖之口役所で「船改」をおこない、納税を済まさねばならない、という制度のもとに、多くの商船が、江差、松前に寄港していたのだが、蝦夷地は幕府領、江差、松前は「私領」=松前藩領となるので、幕府領の西蝦夷地のうち、ヲタスツが便利なので、そこに「船改所」を新設して「船改」をおこなうというのである。この考えは、前述の伊勢守の「覚」のなかでは、「其余蝦夷地取扱之儀、見込之通り相心得」(同前)という部分で是認されていたから、この通りに実行され、西蝦夷地産物を運ぶ商船が、江差、松前に寄港しなくてもよいという重大な事態が生じそうであった。
 松前藩からは次のような要望が出されてくる。東西蝦夷地産物がすべて幕府領となるのにあわせ、蝦夷地産物がすべて箱館経由のみで移出されて行くような制度となっては、「松前并江差市中在々数多之百姓共渡世難取続次第」となり「必至与難渋」ということになるので、「是迄在所表にて為取扱候場所々々之儀は右振合同様ニ被仰付候様仕度、江差之儀も仕来之通り家業相営候様仕度」(「松前伊豆守領分松前并江差町人共奥地場所請負荷物取引之儀ニ付奉伺候書付」に付せられている「松前伊豆守家来工藤茂五郎」提出の文書・安政2年4月1日付『幕外』11-115)-今迄、松前や江差で産物を取扱っていた「場所々々」-西蝦夷地の場所-については従来どおり、松前や江差経由の制度をのこして、「家業」が立ち行くようにして欲しい。
 これに対して箱館奉行側の答には、「東蝦夷地之分は箱館港ニおゐて荷物其外とも相改、西蝦夷地之分は西地之内江船改所壱ヶ所御取建之積ニ付、是又箱館同様相改候得は御取締筋相立可申哉」(同前)というもので前述の安政元年12月の考えを変更しない内容であった。ただし、「諸件凡之見込迄ニ而追々御仕置相立候ハヽ不都合之廉も可御座候」としており、松前藩への「差図」も「箱館并西蝦夷地之内江船改所御取建之積ニ付、両所ニおいて改を請候様可致候」としながらも「時宜に寄、追而猶相達し候義も可之」(同前、「御下之節此【ケン】添御下ヶ」と付記されており、松前藩への「差図」の「附札」に、さらに加えて添付したものである)ということも付け加え、状況により態度を変えるかも知れないという様子は見せていた。
 安政2年11月には、箱館奉行は、次のような「伺」(『幕外』13-40)を出している。松前藩へは、前述のような「差図」をしたのだが「船改所之儀ニ付而は松前地役銭ニも差響同所百姓共ニも品々難渋仕候趣ニ付」前の「差図」は見合せ、種々調べてみると、元来は、東蝦夷地の分は箱館、西蝦夷地の分は松前で扱うという区分が明確だったが、東蝦夷地の場所々々でも松前町人が請負うようになり、船も松前へ寄港させるようになって来たので箱館への寄港が減少し、箱館の衰微をまねいていた。そこでこれからは、「先前之通」東地の分は箱館で、西地の分は松前で扱わせるようにして、西蝦夷地に「船改所」を取立てることは中止にする。この「伺」は、安政3年1月19日に老中へまわされたようで、「見込之通取計、都而不取締之儀無之様可致候事」という「覚」(同前)を付され、この「伺」通りに承認されている。
 安政3年3月12日、「箱館町 問屋一同」は、この件につき「御請証文」(「嘉永七年甲寅二月より慶応丙寅年十二月迄 御触書写」『地域史研究はこだて』第9号、以下「御触書写」と表記)を提出して「西地者是迄之通り松前表ニ而取斗、東地之儀者松前表居住候請負人共も箱館表ニ而船改諸事取扱」うことを「一同承知」したのである。
 幕領蝦夷地の経営も、場所請負人の上納する運上金に依存する面が大きかったのであるから、彼等の利害も考慮すれば幕領蝦夷地箱館中心に管理しきれないかたちもとらざるを得なかったのである。     
 安政6(1859)年、東北地方の諸藩へ蝦夷地の各地を分割し、藩領として給することになると、また、関係する諸地域で、各藩との関わりにおいて場所請負制はどうなるのか、その地域からの産物積出しなどの扱い方がどうなるのかが問題となった。
 幕府は、この時も、従前どおりとの方針をとって東北諸藩へは、次のように達している(前出「書類」)。
 
  蝦夷地之儀ニ付別紙書付相達候、委細之儀は箱館奉行談候
  別紙
 一 今般蝦夷地之内割合被下置候処…
 一 漁事ニ付候儀は都て是迄之通相心得、新規之儀は箱館奉行へ申達可取計
 一 漁場仕入竝辺海之諸産物は都而出入共東は箱館、西は松前にて改受候様可致事
          但右之外直航不苦候事
 一 蝦夷人は漁業を事と致し…夫役等ニ遣ひ候ては可難儀ニ付人数交代其外船にて往返致し陸路通行之節も可成丈夫役不召遣様可致事
 
 箱館奉行が用意していた「御達案」(前出「書類」)には2項目の「漁事ニ付…可取計事」という文言につづいて、「且漁場請負人共儀も是迄之通居置方ニ可之事」という部分があり、「是迄之通」に請負制を変更しないでおくだけでなく、それまで請負をつづけていた請負商人を交替、変更させないで、そのまま請負契約をつづけて行くように指示しようとしていたことがわかる。
 この頃、場所請負人たちは、大巾な制度的変更があるかも知れぬ状況に対応するため、複雑な動きをしていたようである。
 万延元(1860)年1月、西蝦夷地場所請負人は、町年寄から問合せをうけていた。「旧冬東西御場所之内御六家様江御割渡」になった状況では、ということで請負人たちは出稼ぎの漁民たちへの着業資金の融資を拒否していたらしいのである。町年寄たちは、漁民たちの困惑をみて「鯡取共仕入致さざる様も有之哉」(田付家文書「御触書扣帳」『松前町史』史料編第1巻)-漁民たちに融資しない様子があるようだが、どうなのかと請負人へ問合せるかたちで注意したのである。この融資拒否で漁民たちが動揺するような事態をつくり出し、従来のやり方を変更しない方がよいという状況になって行くことをねらった動きと思われる。
 前年末すでに「六家之御大名様方江御領分ニ被下候ニ付…永年之渡世一時に尽果て…何共当惑愁歎之至」として「東西之御百姓一統」が大集会を持とうとする(同前)、とか、「諸産物積取之船々蝦夷地より直〓ニ付而者御城下并江差江諸廻船入津茂有之間敷、左候得者御城下并江差之問屋、請負人無商売…小家之御百姓連ニも渡世相果候次第」-諸藩の藩領となってしまった蝦夷地の場所々々からは、産物が直接本州方面へ積出されてしまうことになるかも知れない。そうすれば松前、江差は「無商売」になってしまう、ひいては「御上様」も困るはずだと、「町在御百姓一同」が「請負人衆中」へ訴える(同前)というようなことが起されていたのである。
 松前藩も「場所」が「他家様御領分ニ」下されるようになっても「御領分之町人請負罷在候内ハ鯡漁ハ不申、都而是迄之通相心得差支無之」-松前藩の町人が請負をつづけている間は、何事も従来どおりなのだから「例年之通仕入金貸遣漁業励ませ可申候」と請負人たちへ「仕入金貸」を勧める「申渡」をしなければならなかった(同前)。
 場所請負人たちの大きな影響力を考慮しないわけには行かず、また、その下にあって動きはじめている「御百姓」の動向にも注意せざるを得ず、箱館奉行は、東北諸藩へ蝦夷地を分割し給与したあとになっても、藩領に任せるかたちをとることができず、請負制、沖之口制ともに従来どおりのかたちを維持するように各藩へ指示するのである。
 こうして3~5年のうちは、従来どおりとして、「其上ニ而時宜次第相改候儀も可之候」(前出「書類」)-状況によって従来どおりという方針を変更することもある、と考えられていた場所請負制も、概ね、かたちを変えず、明治初期までつづけられて行くことになる。