外国貿易がはじまっても、「身元相応之もの共」=大商人たちは、貿易に関心をよせなかった。蛯子砥平の意見で「交易名目人」なるものを設定、本州方面からの商品を大いに移入させ、外国向け輸出にあてるという構想は採用になって、問屋など大商人が、この「交易名目人」として活動することを期待して(砥平は、口銭を受用する問屋は除くべきだとしていたが)、応募するものを待ったが、誰も申出るものがなかった。商品を輸出してドル貨を受けとっても、使い道が限られて、思うように商売ができないと思われていたかららしい。この頃、新しい1分銀を発行、1ドル=3分で引替えることになっていたが、新銀の発行が、ドル貨との交換需要に追いつかず、箱館では、一度流通を指示した新銀の流通はおさえて交換せずにドル貨のまま貿易上は流通させることにしていたようで、通貨の国際関係が、不安定に見え、大きな取引に不安があったということのようである(『幕外』22-321、26-160)。米その他の商品を移入しようとするときドル貨ではうまく行かず、無理してドル貨払いにするとひどく高くつく、そこで問屋惣代は、支配向へ1万両の拝借を出願、4ヵ月後に「洋銀」で返納したいとした。「洋銀ニ而差支候者事実無二余儀一次第」とされ、5000両の拝借は実現した、ということがおきているように(前出岸論文)「洋銀」の流通性に問題があったのである。
そこで貿易に関わるのは「身元薄ニ而其日暮し之もの」で「間違等出来候共、高をくゝり候もの共多安心不レ仕」=外国人との関係上、違法にあたることなども気にしない、という態度で商売にあたるものが多く心配である、というようなことになる(『幕外』26-160)。「仲買」とよばれる、これらの商人の活動で貿易がすすんだことになるが、彼らの動きは、やはり「安心不レ仕」とされるようなところがあった。
外国人への売渡商品についても、沖之口番所へ届出て、売上額の2パーセントの「口銭」(のち「役銭」と改称-問屋口銭と混同しないようにと-万延元年閏3月)を上納することになっていたが、仲買たちは、運上役所へ届出たが、沖之口番所へは届出ないで、安政6年中の「口銭」の上納も延納のまま、放置する様子であった。翌万延元年2月になってようやく990両余上納すべきところ、600両余を上納させて一段落をつけた、とか、問屋が受用すべき口銭(同じく2パーセント)については、とうとう徴収をあきらめることになった、という状況であった(前出岸論文)。
この背景には、「日本役人方ニての媒酌にて日本商人より租税四分を取為」に条約にもとづく「税銀」支払いずみの荷物まで取調べるとは条約違反だという抗議(『幕外』35-81)など、二重課税を問題にする外国人がいること、「品々申立……本邦人も疑惑を生じ」=外国人の異論で、日本人も二重課税の問題性に拠って沖之口番所と問屋への上納を保留する態度をとる、という事情があり、徴収の任にある問屋も、「取立方難渋」を訴えることになっているのである。
箱館奉行側は、「外国人江売渡すといえ共役銭免除致へきいはれ無レ之」として沖之口番所への役銭は、問屋が取立てること、「問屋受用弐分口銭」も従来どおりにせよと改めて触れ(万延元年閏3月27日)、旧来の沖之口制、問屋制による規則を外国貿易にも適用する方針を変更しなかった。従って万延元年の貿易からは、改めて厳重にこの規制がおこなわれることになる。
しかし、この規則も、微妙に変化させられていった。仲買商人が運上役所へ届書を出すと、運上役所へ詰めている問屋手代が、その届書を写し取り、運上所詰町年寄が照合、奥書して、徴税事務が完了するという方式ができてくる(文久元年9月)。本来の荷主ではない仲買商人が、沖之口番所でなく、運上役所へ届出て、問屋の手代は、仲買商人が、荷主から徴集して来た役銭をうけとるだけ、というかたちである。外国貿易についての徴税業務の中心は仲買商人になって来て、仲買商人と荷主の間の関係には、沖之口番所も問屋も直接には関与しないことになったわけである。外国向け輸出についての役銭が「仲買出役銭」という名称で、沖之口の出入役銭など諸役銭と区別され記録されるようになるし、仲買商人が、荷主から「弐分五厘宛の謝金」をとる(2分は問屋への口銭、5厘は仲買商人の受用分)というほかに例のない慣習をつくり出してくることにもなった。
輸出貿易の中心的な位置にすわることとなった仲買商人たちは、外国人からの資金を運用して船頭へ貸付、蝦夷地産物を買付けさせるという活動もはじめる、船頭の「帆待荷」というようなかたちで格安に入手できれば、有利な輸出貿易ができるわけで、外国人の資金を利用して、従来、場所請負人の支配力が圧倒的であった蝦夷地各場所の産物流通に変動をもたらしはじめてもいた。仲買商人柳田藤吉の昆布買付活動で、幌泉場所の昆布相場が急騰(安政6年8月~9月の間に100石68両が98両に騰貴したという)するというような影響力ももちはじめていたのである(この項の叙述は、多く前出岸論文に拠った)。
沖之口役銭延納額の関係で万延元年7月頃に記録されている仲買商人名は、大町 与三郎、大町 藤吉ら11名が知られるが(『函館市史』通説編第1巻)、藤吉が、柳田藤吉(安政4年、箱館大町に開店、のち、開拓使管下の根室で漁場経営を行う、道会議員、衆議院議員を務めた)と思われるほか、経歴など不明の商人たちである。