その後、居留外国人も増え文久2年頃になると、在留官吏より大町築出地の築増の申立が再々行われるようになった。しかしこの件については、大町築出地の近辺に住む人たちの業務上の支障や埋立経費などを考慮すると受け入れることがなかなか容易ではなかった。しかも、当時の函館の事情は「寸分の地を争い候程に相成」という状態で外国人居留地として「海岸船付便利の場所」を望むのは、市中商人にとっても同様の事であった。この問題について箱館奉行は、元治元(1864)年4月に「地蔵町新築島惣体外国人居留地被取極候積」(慶応元~4年「船場町地所貸渡書類」道文蔵)という判断を示し総ての埋立地を提供することにした。当然、埋立をした商人などから反発があったが、奉行側は代替地を用意することによって居留人への対応を優先させたのである。

地蔵町居留地化にともなう土木工事
このことにより図4-4のとおり大きく見て3つの土木工事が必要になった。ひとつは、既存の地蔵町築出地の増築などにより居留地としての整備であり、石工喜三郎へ当初見積1万4700両余にて請負を申しつけた。他は代替地の工事で、そのひとつは尻沢辺道脇の2万5000坪余を山ノ上町遊廓の立退場所の替地として中川伝蔵代源左衛門が2750両にて請負った。もうひとつは、杉浦嘉七などの商人による埋立地の代替地として鶴岡町に新規に5100坪余の埋立を3180両にて忠次郎改め与兵衛が請負ったのである(元治元子年「地蔵町築地御用留」道文蔵)。
そして、同年10月には各国領事へ地蔵町新築島外国人居留地の規則を提示した。この規則は、箱館地所規則に基き横浜居留地の規則も参考にしており、地税に関しては100坪について1か年27ドル97セント余と横浜の例にならっていた。地蔵町築出地の地代については外国領事より「地税は其地の価を以て可取立ものにて、各其割合可有之、既に取極相成候、横浜長崎と比較いたし候へば、当地は地所の価廉値に有之候間、同様の高値を以て取立候義には有之間敷」と函館の地代の高値に異議をとなえていた(慶応元~4年「船場町地所貸渡書類」道文蔵)。同様のことは横浜においても山手居留地の地代についてイギリス・アメリカ・フランスの公使団が長崎にならって100坪につき1年間12ドルと定めたのに対し、神奈川奉行は旧居留地と同額の27.97ドル余をゆずらなかった(『横浜市史』第2巻)。結果的には12ドルとなり、それをうけてか当地でも慶応3(1868)年になると12ドルに変更された(安政3年~慶応3年「各国人民貸渡地所書類留」道文蔵)。結果的に函館では、政府と居留外国人との地代契約は、大町築出地、地蔵町築出地、山ノ手と大きく3段階となり長崎と同じことになる。その後慶応元年5月において当地所は、数人の居留外国人に貸渡され、地蔵町築立地所貸渡証書が発行された。当地所についての地代金は、慶応2年正月から記載されており、6件で2365坪余を貸渡し512両余を請取っていることが確認でき、ドル換算にすれば上記に付合している(文久元年~慶応3年「地税請取書」札学蔵)。
さて、大町築出地が貸渡された後にポーターの山ノ手における家作のことが大きな問題となったことは前述したとおりである。今回もイギリス国商人デュースが、地蔵町居留地貸渡後に山ノ手の地所を拝借したい旨の願いが出された。今回は前回の対応とは違い「長崎表の儀は旧来外国人接遇の御場所、横浜表は外国人のため新規御取開相成候場所にて、迚も当表は同様に難相成」と他の居留地との違いを認めたうえで「一区に難纏市中町人共より一時相対貸借の積りにて、借地借家仕り居り、自然雑居の姿に相成り居り外両港に比例難仕、何れにも当表の儀は山背泊より鶴岡町辺一湊分、海岸山手共一区と見据、御国人において差支なき地を以而居留地として御貸渡相成り」(元治元年「進達録」道文蔵)と外国人居留地の認識が現実的に転換していることがわかる。
この原因は「地蔵町居住地の儀は地位、且用水不自由にて住居難相成旨申張り、迚も一区に纒り住居可仕見据無之」(前掲「進達録」)という点にあり、地蔵町築出地も居留人にとって家作の地としては不適当であり、とても居留人がここに集合する見込もないという判断があっただろうと思われる。さらに居留外国人が望む条件を具備してまで居留地にこだわるよりも、外国人に支障のない範囲で市中の商人にも貸渡すという現実的対応を選択したことになろう。また、居留外国人に対する警戒感が薄らぐといった社会環境の変化にも留意する必要があろう。
そして地蔵町築出地の居留地化の動きは、結果的には、運上会所を中心とする西側の大町築出地ばかりでなく、東側の地蔵町築出地とも政府が保有することになったという変化はあるにしろ、居留外国人にとっての実質的な変化はそれ程見い出せないのである。