延文元(一三五六)年の『諏訪大明神絵詞』によれば「蝦夷カ千島ト言ヘルハ我国ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ日ノモト唐子渡党此三類各三百三十三ノ島ニ群居セリト、一島ハ渡党ニ混ス、其内ニ宇曽利鶴子、万堂宇満伊犬ト云小島トモアリ、此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往来交易ス。」とあり、「宇曽利鶴子」をウソリケシ(函館の古名)と、また「万堂宇満伊犬」をマトウマイヌと読むところから、このころすでに道南地域のアイヌ人たちが津軽外ケ浜地方へ交易のため往来していたことがわかる。
また正平五(一三五〇)年ころ、僧玄恵作と言われる『庭訓往来』には、諸国の名産が挙げられているが、その中に「宇賀昆布」と「夷鮭」があり、宇賀昆布すなわち現在の函館市銭亀町付近から戸井町小安付近で取られた昆布と蝦夷地産の鮭がはるばる京、大阪へ運ばれていたことが知られる。
庭訓往来 内閣文庫蔵
室町時代の資料としては、函館圏流通センターの用地となっている通称守田の山の池近くから須恵(大陸系技術による素焼の土器)質の碗と、珠洲(石川県能登半島)窯の擂鉢片が出土している。調査報告書『西桔梗』(函館圏開発事業団刊)には、和人移住を物語るものと考えられると報告されている。
これらの例からもわかるように、室町時代には東北、北陸の日本海側地域と道南地域の交易は比較的活発に行われており、これら交易船の停泊地に近い場所に和人部落が形成され、やがて東北地方北部から移動した豪族により館が構築されるようになり、これが亀田館(たて)、箱館、志苔館(しのりのたて)など諸館の始まりとなったものであろう。