康正二(一四五六)年や永正九(一五一二)年のアイヌ人の蜂起により、宇須岸(函館の古名)は、全く荒廃し、戦後世の中が落ち着くにつれ、人々は亀田川河口付近に移り住むようになった。
すなわち、この場所は和人勢力の中心たる松前地方と、昆布の主産地たる下海岸方面を結ぶ陸路の要地であり、また越前、若狭など裏日本方面より米、味噌、陶器、古着などの生活必需品をもたらし、また昆布、鮭、鰊をはじめとする海産物その他を購入して行く北前船の停泊地として、更に飲料水が得やすく、畑作地としても適する地であることなどから、人々が集落を形成したものと考えられる。
その後永正十一(一五一四)年武田光広は上の国から大館(松前)にその本拠地を移し、檜山(秋田)安東氏の臣下としてではあるが入港の商船や旅人より税を徴収するようになり、天文二十(一五五一)年には武田季広は東西の蝦夷と講和し、松前周辺の和人地の実支配を始め、徐々にその実権を拡大しつつあった。このような状況の中で蛎崎慶広(松前氏第五代)は文禄二(一五九三)年豊臣秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ、蝦夷島主としての制書を賜わった。すなわち檜山安東氏の支配を脱し、一国の領主となったわけであり、ちょうどこのころから武田・蛎崎の姓を松前と改めている。
この後更に慶広は慶長九(一六〇四)年徳川家康からも黒印の制書を受け、名実ともに蝦夷地の支配者となり、松前氏は政治の中心を本拠地松前の地に置き、その支配地である和人地の両端、西は熊石、東は亀田の地に番所を設置した。
亀田番所の設置年代ははっきりしないが、おおよそ慶長年間であろう。