本道の文化発祥の地といわれる亀田には、高龍寺(自寛永十年至宝永三年)、称名寺(自正保元年至宝永五年)、山上大神宮(天和年中)、亀田八幡宮(自明徳元年至明治三十二年)、および東照宮が創設され、それぞれ函館ヘ移転した。
開拓は大地とともに人間の心をひらくものであり、開拓とともに信仰が生まれるのは必然である。
その昔、亀田の土地を切り開いた人たちは、前記の神社や寺院によって心を休め、生命のよりどころを得て、わが家のため部落のため日夜精進努力したことであろう。
その後代表的な寺院は函館へ移転し、亀田八幡宮も函館区と合併(明治三十二年)により、亀田村の行政区域から離れた。
しかし、宗教は元来行政区域によって区画され、また精神的に細分されるものではなく、行政区域を越えて結ばれるものであって、今日もなお氏子として一体化している。
函館区と合併後の三十九年十一月、北海道庁令をもって、亀田八幡宮は函館区および亀田村より神饌幣帛料を供進する神社に指定されたことによって、亀田村民の氏子としての立場が明確に保証され、神社創設以来一貫して尊崇の的となってきた。
一説には、函館八幡宮もアイヌとの戦いの結果、慶安年間(一六四八年のころ)まで約一三〇年の間、赤川村に移っていたという記録もある。(『函館八幡宮史』高原美忠)(『函館沿革史』福岡竹次郎 佐藤慶吉)(『函館の履歴書』『函館郷土史話』元木省吾)などであるが、『函館郷土史話』には次のように記されている。
「箱館は連年アイヌに攻められて、五、六十年たった永正九(一五一二)年、河野政通の子季通等が一本木で戦死したので、その一族は八幡宮の御神体を赤川村に移した。約百三十年で慶安年間(一六八四―五一)、巫子伊知女が赤川村から元町の元の所に移した。その後長く赤川村には〝八幡屋敷〟という旧跡があったとのことである。」
赤川村に〝八幡屋敷〟があったとの説については、現在赤川居住の古老もよくわからないが、工藤嘉兵衛(元亀田市収入役)によれば、それらしい場所もあるけれども証明する資料がないとのことである。ただ道南を代表する函館八幡宮が、亀田に縁があったという説が残っているのは、両者の関係が密接であった証左であろう。
また『天保九えぞ御巡見使要用録』には次のように記されている。
亀田鎮守元宮
正八幡宮 社地東西百間余 南北百弐拾間余
社木大小千株許(その他略)
末社於二社内一
雷公神
末社於二社内一
稲荷大明神
同
聖天社
同於二鍛冶村一鎮座 祭神保食神
正一位稲荷大明神
一 本殿 三尺 一 木造鳥居 壱基
一 拝殿 三間ニ四間 一 社地 拾間四面
右は例祭九月十二日往古より鎮座 其後明和年中再造
同於二上山村一鎮座
稲荷大明神 祭神雅産霊命
一 本社 三尺社 一 拝殿 三間ニ四間
一 木造鳥居 壱基 一 社地 間数不定
右は前同断 九月十二日例祭
同於二赤川村一鎮座 大山祇命
一 本殿 三尺社 一 拝殿 三間ニ四間
一 社地 間数不定
右同断 例祭九月十二日
右は神社起元就御尋書面之通奉二書上一候 以上
戌五月
亀田村
社司 藤山 直記
前書の通相違無二御座一候
亀田村
名主 武 兵 衛
東照宮は五稜郭築城に関連し、箱館奉行所の鎮守として、官費をもって神山(当時は上山、神社建立により神山と改める)に創立した。この宮は社殿その他も整備され、蝦夷日光と称されたが、戊辰の役によって鳥居、石段などを残して全焼し、函館へ移った。
創立当時に造営した御影石の堂々たる鳥居には、戊辰の役における弾痕が残っている。今は神山稲荷神社の鳥居の役を果たし、おとずれる人たちに往時を語りかけるかのようである。
最近、東照宮の礎石が発掘され、調査研究の必要もあり、文化庁からも視察に来訪するなど、今後の検討の結果が期待されている。
明治以前は前述のように有名な神社、寺院のほか、赤川村の三嶋神社、鍛冶村の稲荷神社などが、それぞれ部落の人たちの尊崇を集めていたが、寺院の多くは明治二十年以降になって独立の形体をとるようになった。
『函館郷土史話』によれば、無縁寺(念仏堂)、現在の極楽寺は、慶応三年、箱館奉行が首切場の話をきき、有珠の善光寺から僧の派遣を請い、また亀田村の名主田原源蔵、年寄塩屋松右衛門の発起で無縁寺を建てることを願い出、徒刑場のほとりに小堂宇を建て、斬死者の供養につとめたという。「南無阿弥陀仏 万延元年」の石碑が建っている。
また宝皇寺のように東本願寺の桔梗野開拓により、安政六年に創建され、その前身は本願寺別院広大寺と称し、僧数人をおいて農事の監督および農民の指導を行い、万延元年宝皇寺と改称したような例は特別である。