銭亀沢周辺の地名

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 銭亀沢周辺の地名が初めて見聞記録として登場するのは江戸時代になってからで、「津軽一統志」(『新北海道史』第七巻史料一)に収録された津軽藩士による蝦夷地調査の記録が最初である。同書は享保十六(一七三一)年に編纂された津軽藩政史で、寛文九(一六六九)年のシャクシャインらの蜂起の際、救援のために松前に出兵した津軽藩士の諸行動が「津軽信政伝」(巻第十)に収録されたものである。「松前より下狄地所付」として記録された地名を亀田から小安までを抄録すると次のとおりである。
 
 一 亀田 川有 澗あり 古城有 一重堀あり 家二百軒余
 一 箱館 澗有 古城有           から家あり
 一 辨才天
 一 亀田崎
 一 しりさつふ 小船 澗あり        家七軒
 一 大森              家十軒但から家有
 一 湯の川 小川有             家八軒
 一 しのり 澗あり       家二十四、五軒 から家有
 一 黒岩                  家七軒
 一 塩 川有 狄おとなコトニ 但ちやし有 家十軒
 一 石崎                  家十軒
 一 やちまき 狄おとなコトニ持分 家十三軒から家也
 一 たか屋鋪           家六軒から家也
 一 おやす            家十五軒
 ※ から家とは漁期だけ津軽下北地方から出稼ぎに来る漁夫の家
 
 現在の銭亀町の辺りはまだ「黒岩 家七軒」とのみ記され、銭亀沢という地名は出ていない。「塩」は、「塩 川有 狄おとなコトニ 但ちやし有 家十軒」と記され、「やちまき」を持ち分とするアイヌの乙名コトニの居所であった。銭亀沢地域はまだアイヌと和人が混在する地域であったわけである。また、「しのり」と「石崎」はそれぞれ二四、五軒、一〇軒の人家があると記されている。大正七(一九一八)年に編纂された「函館支庁管内町村誌」(渡島教育会編)では、村の開始時代を詳知できないが「志苔村」と「石崎村」は、およそ七〇〇有余年前に漁民により漁場が開かれ移住者が増えて部落が形成され、銭亀沢村は石崎村からの分村で五〇〇有余年前にできたと記されている。これはこの状況を指したものといえる。もっとも「函館支庁管内町村誌」は、起源不詳の村の起源を記述する際、「新羅之記録」(『新北海道史』第七巻史料一)などから「文治年間源頼朝奥羽を征するや、泰衡の残党逃れて津軽に奔り後蝦夷地に入る、是れ渡党の初めにして、更に下って文暦時代に至り北条氏和田の一族其他不逞の徒を捕へて蝦夷に放つ、其子孫多く塁を築きて之に拠る」としている。つまり源頼朝が奥州を制圧した文治五(一一八九)年に逃れて蝦夷地に渡った人びとを和人定住者の最初と位置付けているのである。