コシャマインの戦いは、移住和人と先住民たるアイヌとの空前の一大民族戦争であったが、それについて『新羅之記録』はこう記している。
中比(なかころ)内海の宇須岸(ウスケシ)夷賊に攻め破られし事、志濃里(シノリ)の鍛冶屋村に家数百有り、康正二年春乙孩(オツカイ)来て鍛冶に劘刀(マキリ)を打たしめし処、乙孩と鍛冶と劘刀の善悪価を論じて、鍛冶劘刀を取り乙孩を突き殺す。之に依て夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より大永五年春に迪(いた)るまで、東西数十日程の中に住する所の村々里々を破り、者某(シャモ)を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起るなり。活き残りし人皆松前と天河とに集住す。(中略)長禄元年五月十四日夷狄蜂起し来って、志濃里の館主小林太郎左衛門尉良景、箱館の河野加賀守政通を攻め撃つ。其後中野の佐藤三郎左衛門尉季則、脇本の南條治部少季継、穏内郡の館主蒋土(こもつち)甲斐守季直、覃部(オヨベ)の今泉刑部少季友、 松前の守護下国山城守定季、相原周防守政胤、袮保田の近藤右衛門尉季常、原口の岡部六郎左衛門尉季澄、比石の館主畠山の末孫厚谷右近将監重政所々の重鎮を攻め落とす。然りと雖も下之国の守護茂別八郎式部太輔家政、上之国の花沢の館主蠣崎修理大夫季繁、堅固に城を守り居す。 其時上之国の守護信広朝臣惣大将として、狄の酋長胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人を射殺し、侑多利(ウタリ)数多(あまた)を斬殺す。之に依て山賊悉く敗北す。
康正二(一四五六)年から大永五(一五二五)年に至る約七〇年もの間、渡島東部を中心にしたアイヌによる移住和人への襲撃が繰り広げられた。その発端が康正二年、志海苔の鍛冶屋村を舞台にして起こった鍛冶職人と乙孩(オツカイ)(アイヌ語で少年・青年の意)との劘刀(マキリ)をめぐる「善悪・価」にあった。しかし志海苔に端を発したアイヌと移住和人との衝突は、その乙孩と鍛冶職人との対立をはるかに越え、民族戦争の色彩を帯びていった。それは史料が物語るように、長禄元(一四五七)年五月十四日の胡奢魔犬(コシャマイン)の率いる「十二館」の攻撃に象徴される。首長コシャマインの指揮するアイヌの蜂起は、この「十二館」のうち、志苔館・箱館・中野館・脇本館・穏内館・覃部館・大館・袮保田館・原口館・比石館の一〇館を攻め落とし、辛うじて残ったのは茂別館と花沢館の二館のみであった。
これほどまでにすさまじいアイヌと移住和人との民族的正面衝突は、いったい何に因るのであろうか。一般には、「乙孩と鍛冶とが劘刀の善悪価を論じて」に注目し、アイヌと和人との商取引き上の問題、さらにこれを踏まえたアイヌへの差別と抑圧の強化とか、和人によるアイヌの漁業権の侵害などをその衝突原因に挙げることが多い。これらも現象的には主たる対立原因としてもちろん正しいが、より規定的な原因は、この民族戦争が、先住民族のアイヌによる「日ノ本将軍・蝦夷管領」安藤氏と「三守護職」と「諸館主」への襲撃であることに着眼するなら、移住和人とアイヌとの間に惹起した支配と交易関係をめぐる諸矛盾こそが決定的な衝突要因であるといえよう。
平安末から鎌倉初頭に展開した北奥と蝦夷島南部の相互の自主的交易とは打って変わった、いうなれば移住和人ないしは館主主導の一方的な交易の帰着するところ、そこには先住民族を本州交易圈に巻き込み、支配と差別に彩られた抑圧的関係が生じることは火を見るよりも明らかである。「日ノ本将軍・蝦夷管領」安藤氏が南部氏との抗争の末、夷嶋(えぞがしま)に敗走し、夷嶋のなかに、移住和人のヒエラルヒーたる「日ノ本将軍・蝦夷管領」-「守護職」-「諸館主」の支配編成方式をもとにアイヌに対したこと、それ自体が民族的衝突の象徴であった。安藤氏をはじめとする諸館主たちの日本海海運による経済的交易矛盾が逸早く露呈したのは、志苔館・箱館であった。これは、平安末以来のエビス間における北奥と蝦夷島南部との交易の有り様からして至極当然の帰結といえよう。
長禄元年の最大規模の民族戦は、前引のように、武田信広が総大将となり「狄の酋長胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人を射殺し、侑多利(ウタリ)数多(あまた)を斬殺」したことで、一応の終結をみるのである。