1、蝦夷地の直轄

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 六ケ場所の場所請負制が確立するにしたがい箱館や亀田からの入稼は急増し、土着して漁業に従事するものも増え、六ケ場所は漁村として体(てい)をなしていった。1700年代も後半になると各場所の漁獲物の種類や生産高も増加し、それにともない藩や知行主は、運上金の増額や新たに各種雑税(役金)を課したため、1779年(安永8年)下海岸の漁民は、大挙して役金の免除、昆布の(請負人の)一手買い不許可を求めて松前藩亀田番所に強訴した。天明の大飢饉(1783年)以降になると、南部地方からの和人の入稼・土着が加速度を増し、六ケ場所の和人化は、アイヌ居住地といい難い様相を呈してきていた。
 幕府は1785年(天明5年)最初の蝦夷地調査以来、たびたび幕吏を派遣して調査や交易を行い、松前藩の蝦夷地経営状況とロシア南下の実態を把握し、北辺警備の重要性と蝦夷地経営を幕府が積極的に進める政策を打ちだし、1798年(寛政10年)大規模な調査隊を派遣することに決定した。
 この寛政10年の調査は特に大規模なもので、目付の渡辺久蔵胤大河内善兵衛政寿、勘定吟味役の三橋藤右衛門成方の3名に命じられた。渡辺ら3名は総勢180余名の調査隊を組織し、同年4月江戸を出発、5月福山(松前)到着、大河内政寿は東蝦夷地様似まで、三橋成方は西蝦夷地宗谷まで、それぞれの地を視察し、11月江戸へ帰り復命。幕府はその報告を評議し、遂に蝦夷地の経営を幕府が直轄して行うことに決定し、年明けて1月、蝦夷地取締御用係に松平忠明・羽太正養・石川忠房・大河内政寿・三橋成方の5名を任命した。
 1799年(寛政11年)8月、幕府は、東蝦夷地知内川より知床岬に至る地を幕府直轄地と決め、経営に乗り出した(この年、渋江長伯一行が恵山を調査「東游奇勝」に著す、秦檍丸(村上島之允)も恵山を調査「蝦夷島奇観」に著す)。そして、幕府は数年の結果を踏まえ、1807年(文化4年)3月には、1805年(文化2年)の目付遠山景晋・勘定奉行吟味役村垣定行らの西蝦夷地見聞の復命や、松前藩主のロシア内通などの嫌疑を理由に、14代章広を陸奥梁川に転封隠居させ13代道広に永久蟄居を命じ、松前藩から西蝦夷地も取り上げ、蝦夷地全域を直轄地として支配することとした。