東蝦夷地の直轄を決めた幕府は、寛政10年以来おいていた蝦夷地取締御用係を廃止、1802年(享和2年)2月、蝦夷地幕政の中心機能として箱館に蝦夷奉行を設け(同年5月、箱館奉行と改称する)、初代奉行に戸川安諭と羽太正養の2名を任命した。羽太正養は蝦夷地取締御用掛以来の蝦夷地経営状況を公務日記『休明光記』に、詳細に記している。蝦夷地経営のねらいは、千島列島を南下するロシアに対抗するため択捉(えとろふ)島など東蝦夷地奥地の開発(ロシアに対しての領土主張なども含め)をすること、場所請負制度を廃止し奉行(幕府)直轄の場所経営である直捌(じきさばき)制の実施で経済的利益を幕府側に吸収することにあった。松前藩は石高9千石の大名格であったが、漁業収益が石高にして10万石とも20万石とも噂されていたので、幕府の本当の狙いは後者だったのかもしれない。
1807年(文化4年)3月、幕府は蝦夷地全域を直轄とすると、10月には奉行本営を箱館から福山(松前町)に移して松前奉行と改め、先任の戸川安諭・羽太正養奉行に加え川尻春之・村垣定行を任命、あわせて4名とし幕政の体制強化を図ったが、数年で2名を定例とした。なお、奉行職は役高2千石、役料1千500俵、在勤中手当て700両で格付は芙蓉間詰(ふようのまづめ)、遠国奉行では席次が長崎奉行に次ぐ重職であった。しかし、松前奉行は箱館奉行に比べ、その経営は積極性に乏しく、西蝦夷地では松前藩時代の場所請負制度を存続させ、1812年(文化9年)には東蝦夷地の直捌制を廃止し、場所請負制度を復活させている。ただ、懸念されていたロシアの動静については、1806~7年のロシア船(フヴォストフ大尉ら)来冦、1811~13年(文化8~9年)のゴロウニン事件(漁業の章・高田屋嘉兵衛の節参照)など緊迫した状況もあったが、高田屋嘉兵衛らの尽力により事件は無事解決、その後ロシア対策も急激に緊張緩和へと向かい、松前藩の強力な復権運動もあいまって、1822年(文政5年)幕府は松前奉行を廃し蝦夷地経営撤退、同年5月、松前藩は復領することになる。なお、この幕府経営期間中の利益は40万両余とされ、この金額からも、蝦夷地の莫大な生産性が直轄の狙いだといわれるわけが頷ける。
この期間、箱館六ケ場所は蝦夷・箱館奉行、松前奉行の管轄下に置かれたことはいうまでもない。