1、古い記録にみる、郷土のようす

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1670年頃(寛文10年頃)『津軽一統志
 郷土の地名や集落のようすが記されている最も古い記録は、『津軽一統志』である。
 津軽一統志は文字通り『津軽藩史』であり、この巻第10にシャクシャインの乱に関する内容が収められていて、その中に当時の蝦夷地のようす、また、松前藩・和人とアイヌとの権力関係等も記述されている。松前藩のアイヌ民族に対する支配力が一層強まり、藩の権力が強力になり、東西蝦夷地への和人の進出が活発化し『漁業交易区域』、いわゆる『商場(あきないば)』としての集落が形成されていくのは、このシャクシャインの乱平定後である。したがって、この乱のもつ意味、背景などについて概略触れておく。
 
シャクシャインの乱>
 蝦夷地での、和人と先住民族アイヌとの衝突はたびたび起こっている。
 なかでも1669~72年(寛文9~12)にかけて起こったシャクシャインの蜂起は最も大きな乱であった。
 この乱の発端は、1648~53年(慶安元~承応2)にかけての東蝦夷地のシブチャリ地方(現静内町)のアイヌ・メナシクル(乙名(おとな)カモクタイン・脇乙名シャクシャイン)とハエ地方(現門別町)のアイヌ・シュムクル(乙名(おとな)・オニビシ)との漁業圏をめぐる争いであり、これには、政治的背景があった。乙名オニビシ率いるシュムクルが松前藩の影響を強く受けていたのに対して、乙名カモクタイン・脇乙名シャクシャインの集団メナシクルは、まだ松前藩の政治的影響も弱かった。
 松前藩はアイヌ間の紛争が蝦夷全域に広がる事を警戒し、幾度となく現地に家臣を送り調停工作をしたが効果もなく、1653年(承応2)春、オニビシ側がシブチャリに攻撃を加え、乙名カモクタインを殺害した。ここに至って松前藩は武力を背景に停戦を呼び掛け1655年(明暦元)、新しく乙名の座についたシャクシャインとオニビシを城下松前に呼び「向後出入仕間敷」事を誓わせたが、その後も両集団の争いは止まずむしろ激化の一途を辿る。1668年(寛文8)4月、シャクシャイン側が、金堀の文四郎の小屋にいたオニビシに奇襲攻撃を加え刺殺。オニビシの姉は仇討ちを目論んだが逆にシャクシャイン側に倒される。戦況不利となったオニビシ側は松前藩に武器援助を要請するが、藩はアイヌ内部の抗争であることを理由にこれを拒否。こういった最中、再度、武器援助の要請に赴いたオニビシの姉婿のウタフが、帰途、疱瘡(ほうそう)にかかり死亡するという事件が起きた。このウタフ死亡の報は、アイヌの人々に松前藩による毒殺として伝えられ、この誤報が契機となり敵対する両集団は紛争を棚上げし、その矛先を松前藩・和人へと向けてきたのである。
 シャクシャインは「ウトフ義、松前にて毒飼せられ相果て候、此巳後も狄(てき)地(アイヌの地)へ参り候食物に毒を入れ狄(てき)とも殺可申」(津軽一統志)と受けとめ、「メナシクル(シャクシャイン側)の狄の義は松前よりにくまれ候と相見得申候、以来毒飼にて殺され可申候義紛無之間、各一味仕松前より参り候商船を先打ち殺可申」と、東西両蝦夷地アイヌに檄(げき)をとばし蜂起した。これに呼応し、1669年(寛文9)6月、東は白糠、西は増毛(石狩アイヌは参加せず)に至る東西蝦夷地アイヌ民族が一斉に蜂起、和人の商船や鷹待(鷹狩り用の幼鳥を捕獲する商人)らを襲撃し、東蝦夷地153人、西蝦夷地120人の和人が殺害された。
 シャクシャインの蜂起は、アイヌ民族内部(メナシクル対シュムクル)の争いに絡んだ、松前藩の、アイヌ(シュムクルの乙名オニビシの義兄ウタフ)毒殺の誤報から、シャクシャインの檄を契機とし、松前藩・和人に対するアイヌ全民族の蜂起へと一挙に質的転換したところに大きな特徴がある。その原因について近世の記録では、庄太夫や文四郎なる鷹待や金堀人夫の策動・煽動とする見解が多い。しかし、ことの本質は次の2点にあった。
 第1は、松前藩の成立と発達によって、アイヌ民族への収奪が一段と強化されていったことにある。松前藩は、藩の財政を支えるために、蝦夷地和人地アイヌ居住地に区分し、商場知行(あきないばちぎょう)(後述)を介して、アイヌとの交易に制約を加え事実上独占権を握った。しかも、その交易は、権力と商取引形態の差などを利用した欺瞞的(ぎまんてき)なものであり甚だしく不平等な交易であった。また、藩政初期にはアイヌ交易だけでは財政が成立しなかったので、財源を砂金や鷹に求め蝦夷地内に砂金採取場や鷹場を設けたため、多くの金堀夫や鷹待ちたちが蝦夷地に入ってアイヌの漁・猟場を荒らした事などにより、アイヌはかってない民族的危機−生活の場を奪われている−に遭遇していたことにある。
 第2は、アイヌ共同体発達過程の内包する矛盾と、アイヌ民族の松前藩との権力関係に対する共通認識・行動にある。
 アイヌ社会自体は、松前藩・和人の収奪と抑圧に遭いながらも、一方では交易を通じて共同体首長の経済力が向上し、政治地位に支配・被支配関係が生じてきた。つまり、大酋長−酋長−共同体成員という支配・被支配関係である。そして、これが、河川共同体(経済圏)を中心に交通が活発になるにつれ、より広範囲の地域的な大共同体となっていった。これらのアイヌ共同体と松前藩との関係は、共同体それぞれが抱える問題から、複雑な状況下に置かれていた。端的にいえば親松前藩、反松前藩に色分けされようが、必ずしも、それだけが共同体としての成立要件とはなり得ないという状況も含んでいた。
 しかし、アイヌ民族としての本来的な共同体はまだ破壊されていなかった。つまり、共通の矛盾・敵対という認識に立てば、松前藩に対しても、アイヌ民族共同体首長の下に立ち上がるという力を内包していることであった。
 それだけに、この蜂起はまさに民族・国家の戦いという事であり、松前藩のみならず徳川幕府にも大きな衝撃を与えた。そして、これを鎮圧するために幕府は、松前氏の一族であり、旗本の松前八左衛門泰広に出陣を命じ、津軽藩にも出兵を命じた。幕府がアイヌ民族の蜂起に直接的な指揮権を発動したのはこれが最初である。
 松前藩も当然、急拠軍隊を編成して鎮圧に乗り出した。
 戦いは当初、アイヌ軍のゲリラ戦法に合い、松前・幕府軍は苦戦を強いられたものの、鉄砲と毒矢あるいは兵力の差、アイヌ勢の分断策などが功を奏して、アイヌ軍の勢力は国縫(くんぬい)で阻まれて次第に弱まっていった。そして、1669年(寛文9)10月には松前軍の奸計(かんけい)により、シャクシャインがピポクに誘殺された。その後、アイヌ軍の降伏が続出し、翌、1670年(寛文10)松前軍は西蝦夷地余市まで出陣し、大方のアイヌを鎮圧、償品(ツグナイ)を取り、1671年(寛文11)今度は、東蝦夷地白老に出陣し、シブチャリ(現静内町)以東7部落の仕置(しおき)(戦勝後の処置)を行い、シャクシャインの蜂起は最終的に鎮圧されるに至った。
 この蜂起後、松前藩はアイヌ民族に対して、「絶対服従を誓わせた7カ条の起請文」を強要した。そして、これを契機に松前藩のアイヌ民族に対する政治的経済的支配は一段と強化されていく。(以上、北海道百科事典・榎森 進より)
 わが郷土(ふるさと)に和人が土着し集落が形成され、漁業が営まれるようになるのは、シャクシャインの乱以降である。
 
津軽一統志に記された郷土沿岸のようす>
 これによると、当時小安戸井町)から野田追(八雲町)までの沿岸は、アイヌの乙名、(惣大将)アイツライの勢力下にあり、ほかに、オヤワイン、ヤクモタイン、サルコの支配地であったことが記されている。これらの人達がシャクシャインの乱の際、どのような動きを取ったのかについては不明であり、従って、これが、乱以降なのかあるいは以前からなのか、詳細は分からない。

[表]

 狄(てき)とはもともとエビス、シナ等外国人あるいは北方の蛮人を差し、ここではアイヌという意味、また、乙名(おとな)は、アイヌの頭領、首長をさす言葉で、持分とは支配・統治しているということから、この海岸一帯がアイヌの支配地であることは明らかである。また、家の数については恐らくアイヌの民家であり、から(空)家は和人の漁期の番屋のようなものであったと推察される。
 『津軽一統志』には、のたあい(のたへ)を、新井田権之助の商場(あきないば)と記述されており、この時代、すでに商場(商場知行)が存在していたことが分かる。
 
1700年(元禄13年)『松前島郷帳』より、和人地蝦夷地アイヌの居住地)
 1697年(元禄10)2月、幕府は全国の各藩に、国絵図および郷帳の提出を命じた。松前藩もこの命を受け1700年(元禄13)1月、『松前島絵図・松前島郷帳』を調製し、同年2月に幕府に提出したが、郷土の沿岸付近のようすについては、次のように記述している。
 
 従二 松前一 東在并蝦夷地之覚
 おやす村
 うか川村
 汐くひ村
 従レ 是蝦夷地
 はらき
 しりきし内
 ゑけし内
 こぶい
 ねたない
 おさつへ
 おとしつへ
 のたへ
 
 これによると、松前藩は、近世初期の和人地の東端が石崎村であったのを、ヲヤス領、おやす村・うか川村・汐くひ村(汐首)までと東進し、蝦夷地アイヌの居住地)を、はらき(原木)以東、のたへ(野田追)までと定めている。
 
1718年(享保3)『松前蝦夷図』より、沿岸のようす
 1717年(享保2)6月、幕府は巡見使、有馬内膳ら3名を派遣、形式的ではあったが、西は乙部付近、東は石崎付近まで視察し『松前蝦夷記』を表している。なお、この巡見使に関係あると思われる『松前蝦夷図』(享保3年写・大東急記念文庫所蔵)にも、郷土の海岸一帯の状況が記されている。
 
 おやす村   是より東はま通り馬足相叶ひ不申候
 うか川
 汐くひ村  *是より夷地 岩つゝき、小舟の澗在り
 しりきし内
 ゑけし内   遠浅岩つゝき
 こぶい
 ねた内
 ゑさんの崎  小舟ノ間有り
 おさつへ   此浜通りこんぶ有り
 なかはま   はまつゝき遠浅
 うすしり
 つくのつへ
 かやへ
 おとしつへ  此間おつとせい有り
 のたゑ
 
 『松前島郷帳』では、原本に「従(より)是(これ)蝦夷地」としているが『松前蝦夷図』には、汐首村に「是より蝦夷地」と記している。いずれにしても、小安、戸井までは和人の入稼や土着が相当数あったものと推察される。