寛政11年(1799年)8月、幕府は、北辺防備の強化・奥地開発と経済的利益の幕府主導を図り、松前藩がこれまで統治していた蝦夷地全域の内、東蝦夷地(知内村から箱館銭亀沢村・小安村以東の下海岸・噴火湾沿岸を経て太平洋沿岸から納沙布岬をまわり、国後、択捉島を含み、知床岬まで)を直轄する。そして、この東蝦夷地の、①場所請負人制度(註1)・運上屋(註2)を廃止する②道路を開き会所(註3)を建てる③駅馬を備え交通路を整備する④官船を造船し海上運輸を便利にする。などの政治方針を打ち立てた。
文化4年(1807年)幕府は、さらに東・西蝦夷地(蝦夷全島)直轄の令を発し、それと同時に奉行所を松前の地に移し松前奉行と改称、松前藩主松前章広は陸奥梁川に移され9千石を与えられた。
(註1)場所請負人制度
「場所」とは、アイヌとの交易のために和人が所定した地点を中心とした一定の領域を指す(尻岸内場所・茅部場所等、箱館六ケ場所がそれである)。この場所での交易権は松前藩の家臣に与えられ、交易・商いの実際は運上金を納めさせ商人に請負わせる方法を取っていた。これが「場所請負人制度」である。
(註2)運上屋(運上家)
松前藩主・知行主のアイヌ交易所、場所請負人制度が整ってからは、その請負場所・経営の拠点となった建物のことをさす。
交易所当時の形態はオムシャといって、礼装の役人が掟書を読み、善行者に褒賞を行い老人らに品物の授与、祝宴など、一種の儀礼を介して行われる年に数回の交易だったので、運上屋といっても粗末な建物にすぎなかった。商場経営が商人による請負形式に変化し、経営内容もアイヌ交易から漁業経営へと発展することにより、運上屋も機能、規模ともに大きく変化していった。まずは、漁業経営の拠点として、和人およびアイヌの労働力を管理する場となった。運上屋には、場所請負人の支配人・通詞・帳役などが詰め、番人、稼方などの和人労務者を使役し、一方、アイヌに対しては、アイヌ社会固有の階級関係(乙名−脇乙名−小使−土産取−平アイヌなど)を介して使役した。両者の関係は形式上対等の立場として、従来どおり儀礼としてのオムシャは行われたが、内容は藩・幕府の法令や漁場内での諸規則の伝達式へと変質していった。
こうして、運上屋は、場所における漁業経営の拠点であると同時に、『政治的支配』の拠点という性格を次第に強めていき、それに伴い、建物自体(シンボルとして)も立派なものが建てられるようになった。すなわち相当な規模の運上屋本体に、付属施設として、番屋・蔵・休泊所などが増加・年々増築、整備され、場所内の政治経済支配の拠点、ないしは現地における行政官庁的機能を持つに至った。
そして、幕府直轄時には、これを『会所』と改称しているが、行政的機能の増大を反映したに他ならない。箱館六ケ場所は享和元年(1801年)、村並と認可され、和人の居住が法的に認められたことから、運上屋−会所は文字どおり行政機関となったわけである。