明治14年からの主な海難事故をひろう。
茅部郡古武井村にて海難 明治14年(1881)1月『函館新聞』
○茅部郡古武井持(むら)にて漁師三人、鱈漁に出かけしところ、意外に多く漁があるので面白紛(まぎ)れ無暗に釣揚ると、鱈の重みでたちまち漁舟が沈み二人は漸々(ようよう)に泳ぎつけて命だけは助かりしが、今一人は水へ落ちたきり更に行衛が知れぬとは気の毒なり。
久榮丸の困難 明治14年(1881)10月『函館新聞』
○日高国幌泉郡猿留村、亀田忠五郎所有日本形久榮丸三百三十八石積に鱒五十八束昆布若干を積込み、同人直乗にて先月十四日に同所を出帆し函館へ向け航海の途中、十八日恵山岬の沖へ差掛かるころ、暴風吹起り遂に舵を傷め碇六挺のうち三挺まで失ないし、〈中略〉この時鱒四十三束、昆布百三十石を投棄てて危難を免れたり、風波も和(なぎ)たれば再び函館目指して進航し三十一日またも時化の模様あることにより、亀田郡日浦沖へ船を寄せ同所に碇を卸して暫時日和を待居たるところ、また西風吹起ッて必死の防御も其甲斐なく、高浪怒濤に碇二挺を失い残り一挺にて、なかなか防ぎ課(おわ)すべきにあらねばついつい吹流されて、其近海尻岸内の浅瀬へ打ち上げたりしが幸い人も船も格別傷まず〈以下省略〉
行衛不知(ゆくえしれず) 明治20年(1887)4月2日『函館新聞』
○亀田郡根田内村にて三人乗り(姓名不詳)の鱈釣漁船壹艘去月(あとげつ)二十八日沖合へ出掛けたきり今なお行衛が知れずとのこと、多分暴風のため溺死せしならんという。
帆送船沈没の噂 明治24年(1891)1月22日『函館新聞』
○亀田郡尻岸内に於十人乗位の帆送船一艘乗上げたりと道路の風説(噂)。
難破船(帆送船沈没の噂の続き) 明治24年(1891)1月24日『函館新聞』
○前号(上記一月二十二日号)に一寸尻岸内に於て難破船ありしとの話を記載したるが、今其詳報を得たれば左に記載すべし。
函館区末広町八番地、浜田静次郎氏所有西洋形、帆送船順速丸(八八噸積)船長松永武三郎他乗組員八名にて去る一月六日、千島の国後乳呑地より船客十四名積荷長切昆布二千三百三十丸(荷主昆布会社)鮭二十四束同十個を搭載し、同日午前六時頃出帆し当港に向け航海中、七日根室花咲へ寄港同日午后八時出帆し暴風の為漂流して十日厚岸沖ヘ〈以下文章を省略〉十一日十勝大津−十二日襟裳岬沖−幌泉沖−三石沖−一四日正午十二時頃三ッ石山を後に進路を西々北に取り進行途中、暴風降雪甚だしく、次第に激浪加わり午後八時、遂に亀田郡尻岸内村字日浦カラスウタ岬の岩石に突き当たり船体微塵に粉砕し乗組人船客の中十四名だけは辛うじて救助したが、船長他二名、船客六名都合九名は溺死か行方知れず積荷船具は悉皆流失。〈以下省略〉
破船乗組人死す 明治24年(1891)1月28日『函館新聞』
○去る十四日尻岸内村海岸にて難破したる金比羅丸の乗組員悉(ことごと)く行方知らずになりしか、先日其一人の死体漂着したるに付き、同村戸長役場にて仮埋葬したりと。然るに同船持主(函館区)西川町五十一番地米谷久八より届出なきに付取調ありたき旨尻岸内村戸長役場より当区役所へ依頼ありたりという。
難破船の救助 明治34年(1901)11月6日『北海朝日新聞』
○亀田郡尻岸内村荒木竹太郎外二名の者は去る拾月参拾日、同村海岸を距る三海里の沖合にて鮫釣りを為し居たる折に、西風俄かに吹来り激浪怒濤の為に漁船を転覆せられ漂流中、第十観音丸が此有様を認め直に右の三名を救助し遭難漁船も本船に繋ぎて、同郡椴法華村に寄港し無事上陸したる由。
難破船の救助 明治36年(1903)5月24日『函館公論』
○函館区魚盍澗(たなごま)町十番地廣瀬三右衛門所有、小廻船長宝丸五十三石積は尻岸内其他へ荷物積取りの為、本月五日当港を出帆し尻岸内にて荷物を積取り帰航の途中、尻岸内村武井泊トードリ岬に於て、去る十九日午前十時頃、風波に加えて潮流烈しかりし為め舵を切断せられたる上、暗礁に触れ漂い居たるを幸い、同村赤井幸一郎に発見せられ佐藤馬吉外二名に船員三名及び、積荷船具等を救護せられたるが、該船搭載貨物は石灰十六俵、駄昆布五十二丸、魚粕八個にして船主の損害価格は約三百円内外なりという。
漁船の転覆 明治37年(1904)10月5日『函館新聞』
○亀田郡戸井村薄澤藤吉(六二)武田重五郎(四二)大澤庚(十五)の三名は去る廿八日午後三時頃、同郡尻岸内村根田内沖合に出漁し、翌廿九日午前一時頃帰家の途中、川岸沿岸を距てる百五十間の沖合に於て、怒濤の為転覆し突嗟の間、殊に藤吉は老体のこととて遂に溺死したるが、重五郎、庚の両名は辛うじて海岸に泳ぎ着き、一命を取り止めたり。
沖漁試験船の遭難 明治37年(1904)12月14日『函館新聞』
○上磯郡水産組合の漁業試験、改良川崎船上磯丸は先月来亀田郡戸井村を根拠として同郡沿岸の鮪漁に従事し同下旬より鮪百余尾を得来たりしが、去る十一日も例の如く沖合にて漁業に従事し鮪十四尾を漁獲し帰路に就きしが、当時南風が稍強く同村ムイノ島を去る六里許りにして三隻の磯舟漂流し来りしかば、これを救助し同船を曳航して陸に向いしが、十時四十分頃に至り西方の強風に変じ烈風となり、猛雨を交え辛うじて一里余りを来りしが、中途又々磯舟九隻を救助し都合十二隻を曳きたりしが、風益々烈しく磯舟盡く転覆し上磯丸も損傷を生じたるが、一人の死傷ありたるのみにて他は無事なるを得、午後三時頃尻岸内字古武井に漂着したりという。
[汽船]帝浄丸の破壊 明治42年(1909)1月28日『函館毎日新聞』
○汽船帝浄丸は一昨日午前六時頃大吹雪の為め進路を誤り、亀田郡小安村字釜谷沖合の暗礁に乗揚げ、救助の為汽船後志丸が廻航せることは昨日の紙上に記載せるが、今其後の状況を聞くに、同船は恵山岬付近を航行中吹雪烈しき為め航行するに能はず途中にて引返せるも、吹雪は依然として激烈にして咫尺(しせき)を弁ぜす遂に進路を誤り、速報どおり岩礁に乗揚げたれば、非常汽笛を鳴らすと同時に船員一同は必死となり救助の方法を講じたるもの、風は愈々強く波は益々烈しくなり来たりて、船体甚しく動揺し遂に前檣船底より……船体は左舷に傾斜…蜂の巣の〈以下、読取不能〉
[郵船]小樽丸の海難 明治42年(1909)2月23日『函館毎日新聞』
○郵船小樽丸の海難は去る十九日午後五時三十五分、釧路港にて豆材木等一万六千二十二個を搭載、函館に向け出帆せるが翌日午後五時頃、亀田郡尻岸内村字古武井沖航行中、十九日午後よりの西北風強暴逞しく且つ時々降雪ありて、咫尺を弁ぜざるに至り(視界が不明)たる為め、航行するに能はず、古武井に避難せんとするも吹雪と激浪甚しかりし為め、避難するに能はず遂に古武井沖合に仮泊せるが、怒浪益々激烈となり山なす波は甲板上を洗いたる為め、積荷に多少の損害を生ぜるも、船体には異常なく一昨日午後七時二十六分無事(函館港へ)入港せり。
難破せし川崎船 明治42年(1909)12月18日『函館毎日新聞』
○去る十四日午後一時頃、亀田郡尻岸内村より魚類を満載して函館港へ向いたる東浜町堀文吉所有川崎船(乗組員五名)は上磯郡泉沢村字更木を去る百十間位の沖合に差掛かるや暴風雨の為に転覆し遂に二名の溺死者を出したり。
尻岸内難破船「一名行衛不明」 大正3年(1914)10月30日『函館毎日新聞』
○函館区東川町五百十七番地、和田久太郎所有川崎船は二十九日午後一時亀田郡尻岸内村字女那川沖三十間の処を航海中、暗礁に乗揚げ船員全力を注いで引卸しに着手したるも、激浪の為め船体破壊し乗組員八名は海中に没し、瀕死の急に迫り居りしを尻岸内村民に発見され七名は辛うじて救助されしも、一名、氏名不詳通称又治(六十才)なる老人は行衛不明となり漁民捜索中なるが多分溺死せしならん。
○同人の住所は函館区東川町三角湯付近なりという。
発動汽船火事 「根田内沖に停泊中」 大正4年(1915)10月3日『函館毎日新聞』
○函館区弁天町板村回漕店扱い、伏木港萩布宗四郎所有の小蒸気船鹿島丸が一日午前十一時三十分頃当地より烏賊釣船十四艘を曳船し港外に出で、根田内沖合に放ち帰港し同日再び同付近にて帰着船の曳船を待ちつつありしが、午後十一時十七分同沖合に停泊中なりし函館区内魚盍澗(たなごま)町二十九番地、新宅一之助所有発動機船新吉丸(一六噸)が火災を起こし炎々として燃えいたるを発見したれば、鹿島丸は直に救助に向かい接近し共に消火に努め、漸く同十時三十分鎮火せしめたるが新吉丸は火災の為め浸水甚だしく或いは沈没せんも計り難きにより、鹿島丸は曳船し今朝八時無事入港したりと。
○因みに鹿島丸船長は乙種二等運転士小川宇太郎氏なりと。
恵山沖にて衝突 大正5年(1916)6月28日『函館毎日新聞』
横浜田中所有「勢徳丸」(一、二七五噸)と三菱所有「相澤丸」が衝突。
軍艦、笠置絶望 大正5年(1916)8月15日『函館毎日新聞』
軍艦笠置亀田郡尻岸内沖合に座礁、種々引卸しに努めるが遂に不成功に終わる。
笠置乗組将校引揚 大正5年(1916)8月28日『函館毎日新聞』
尻岸内沖合に座礁した笠置引揚絶望に帰し将校・下士官、佐世保に向け出港。
(註)笠置の遭難に就いては後述する。また、資料編参照