松前藩の蝦夷地統一が確立されたのは、五代藩主慶広(よしひろ)の天正十八年(一五九〇)以降である。この頃も和人のみの地域、蝦夷のみの地域、和夷雑居の地域があった。早くから和人の住み着いた江差、福山(松前)地方は和人が大半を占め、江差、福山から遠ざかるにつれて、和夷雑居の地となり、蝦夷の割合が次第に多くなっていた。和夷雑居地から東、汐首岬以東、西、熊石以西は蝦夷のみが居住していた。
先住民族である蝦夷との紛争が絶えなかったのは、和夷雑居地であったので、松前藩は蝦夷の反乱に頭をなやました。慶広は蝦夷と和人の紛争を防止するため、和人と蝦夷の居住地を区分することを考え、天正十八年に当時の和夷の居住現状により、汐首岬以東、熊石以西を蝦夷地とし、東蝦夷地、西蝦夷地と名づけ、熊石から汐首までを和人地とした。そして次の布令を和人地と蝦夷地に出した。
「一、和人地には、従来居住している蝦夷の外は、蝦夷の居住を禁ずる。
二、蝦夷地には、和人の往来を禁ずる」
この布令は、境界近くの和人や蝦夷にとっては、世界戦争後、朝鮮が南北に分けられたり、ドイツが東西に分けられて、ベルリンの壁ができたことと似ている。
この布令によって、和人地に居住していた蝦夷が死んだり、蝦夷地に移住して、次第に和人地の蝦夷が減少して行った。又蝦夷地に居住していた和人も次第に和人地に移り、蝦夷地は和人の住まない土地になった。
現在の戸井町は、ベルリンの壁ならぬ「汐首岬」で東西に区分されたのである。汐首岬の東西に親子、兄弟、親戚が分れていた和人も蝦夷も、それぞれに種々の悲劇があったことが想像される。
松前藩は蝦夷地統治の方法として、場所という名で村や部落を区画し、場所請負(うけおい)制度をつくった。そして各場所に運上屋(うんじょうや)をおき、松前藩の役人を常駐させた。そして蝦夷の酋長を乙名(おとな)に任命して蝦夷を治めさせた。
場所請負制度をつくった始めの頃は、藩土を場所請負人としていたが「武士の商法」でうまくいかなかったので、後には福山城下の豪商を請負人に任命するようになった。場所請負人の任務は、その場所の徴税、漁業の指導と統制、一般行政等であったので絶大な権力を持っていた。請負人は福山城下に居住していて、場所には常駐せず、支配人や番人を常駐させた。
福山から遠く離れた場所では、支配人が一切の権限をもっていた。そこで愛情のない、心の正しくない支配人や番人は、苛酷(かこく)な税を課したり、牛馬をこき使うように蝦夷を酷使したり、虐待(ぎゃくたい)したために蝦夷たちは病に倒れたり、和人のいない奥地へ逃げたりして、蝦夷の人口は年々減少していったのである。
この時代に小安、釜谷、汐首が一場所として、小安に運上屋がおかれ戸井、鎌歌、原木が一場所として、戸井に運上屋がおかれていた。運上屋は小安、戸井の外に尻岸内、尾札部、茅部、野田追におかれ東蝦夷地の六場所といわれた。
場所請負制度は、寛政十一年(一七九九)幕府が蝦夷地を直轄するようになるまで約二〇〇年間続いた。
菅江真澄の紀行文の、寛政元年(一七八九)に書いた『ひろめかり』、寛政三年に書いた『えぞのてぶり』の随所に運上屋ということばが出てくるのはこれである。
真澄が道南を巡遊したのは、運上屋の廃止される七年前である。古書、古記録でも運上屋ということばが書かれているのは、寛政十一年(一七九九)以前のものである。