大政奉還と箱館裁判所

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 慶応三年(一八六七)十月十四日徳川慶喜により大政奉還がなされ、二百五十年間に渡った徳川氏の政権は終りを告げ、同年十二月九日朝廷から王政復古が発せられ明治新政府が成立した。しかし国内においては、慶応四年(一八六八年九月八日をもって明治と改元する。)一月の鳥羽伏見の戦い、二月の奥羽征討軍の派遣など各地で戦闘が続いており、明治新政府は蝦夷地の実経営を旧幕府時代の箱館奉行所に引き続きゆだねているような状況であった。このような情勢下、樺太を視察した岡本監輔はロシアの進出に対する防備の必要性を力説した。また新政府にも蝦夷地開拓を重視し、更に中央集権国家の完成を望む声があり、これを取り上げた朝廷は種々検討の結果、慶応四年四月十二日旧幕府の箱館奉行所を撤去し、箱館裁判所を開設することに決定した。
 明治新政府は同日付で総督には仁和寺宮嘉彰親王、副総督には清水谷公考(きんなる)・土井能登守利恒(越前大野藩主)、その他判事等の役職者を任命した。しかし嘉彰親王は事情により直ちに辞任し、これに替わって清水谷が総督となったが、そののち土井能登守も病気を理由に辞任したため、副総督の補充のないまま箱館裁判所の仕事が開始される運びとなった。
 箱館裁判所というのは蝦夷地において、行政・司法・外交・警備・開拓を担当する目的で設置された総合的な役所で、明治元年閏四月二十七日前箱館奉行杉浦兵庫頭から新政府清水谷総督に政務が引き継がれ、その後五月一日箱館裁判所が開庁されている。
 この時箱館裁判所に置かれた係は、民政方・文武方・外国方・物産方・勤定方・監察方・執達方の七掛であった。
 次に明治元年五月一日の開庁に先だって、前箱館奉行杉浦兵庫頭から箱館裁判所総督清水谷公考に引き継がれた村名を『慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書』により記すことにする。(函館図書館蔵)
 
   村名帳
  箱館町・尻沢辺
   〆 貳ヶ所
  亀田村・有川村戸切地村・三ツ谷村・富川村・茂辺地村・當別村・三ツ石村・釜谷村・泉沢村・札刈村・木古内村・下湯川村・上湯川村・志苔村・銭亀沢村・石崎村・鍛冶村・神山村・赤川村・大川村・七重村・藤山郷・峠下村・市之渡村・文月村・濁川村・中野村・本郷・大野村・千代田郷・一本木郷・石川郷・城山郷
   〆 三拾四ヶ村
     六ヶ場所
  小安村・戸井村・尻岸内村・尾札部村・臼尻村・鹿部村・砂原村・掛り澗村・鷲木村・森村・尾白内村・落部村
   〆 拾貳ヶ村
  山越内村・長万部
   〆 貳ヶ村
 
  (この時椴法華の名が見当らないが、椴法華は一村独立しておらず尾札部村の支郷であったためである)