陸路の充実

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 寛政十一年(一七九九)八月幕府は、東蝦夷地知内村から以東を直轄し、東蝦夷地場所請負人を廃し、道路を開き会所を建て、駅馬を備え、官船を造って運輸を便利にするという政治方針を確立した。
 このことについて箱館奉行羽太正養は『休明光記巻之一』で次のように述べている。
 
   蝦夷の地は盡く嶮阻にして通路自在ならず、所としては人蹟絶え其海岸搔送り舟をもって、漸々に通路をなすといえども、風順よからざれば舟行の道をたち、徒に風を待ち日を送る。かくては事のあらん時急を告るに妨あり、亦常に往来の煩ひなれば、こと/\く道を開て通路をつけ往来の煩なからしめ、又数里の間旅宿なければ、旅行のもの野宿の労にたえず、前にいふ所の官舎を建て旅宿とせん。先是等の数事をさしあたる所の急務として手を下さる。
 
 以上のような幕府の方針に基づき、まず寛政・享和年間(一七八九~一八〇四)には、東蝦夷地長万部虻田間、様似-幌泉、幌泉-猿留(さるる)等の道路が開かれ、更に文化年間(一八〇四~一八)仙鳳趾-厚岸間、木古内-上ノ国間、西蝦夷地の岩内-余市間その他数か所が開削された。このため蝦夷地内の陸路は、ようやく風雨の激しい日でもどうやら通行が可能となり、里程もいくらか短縮され、やや交通は便利になった。
 このような蝦夷地内の道路の整備に伴って、旅人の宿設備も次第に整えられるようになり、寛政十一年昆布森・仙鳳趾・厚岸・ノコリベツ・アンネベツ・野付・その他の十か所に宿所が設けられ、その後更に宿所の設備が増加されたことによって旅人にとっては大へん便利になった。
 宿所は最初会所とよんでいたが、のちには旧運上屋だけを会所と呼び、宿するものを旅宿所又は通行屋と呼ぶようになった。これらの所には、番人や人夫を置き人馬や船の継立を行い、急用の場合は早馬・早走・早船なども取扱うことが出来る所もあった。
 なお宿所・会所のことについては、『休明光記遺稿』に次のように記されている。
 
   寛政十二申年三月、休明光記遺稿
   蝦夷地会所掟書竝箱館会所掟書之事
  斯而、東蝦夷地場所々々おゐて会所を造り建られて、蝦夷人と交易の場となし、又は旅人之宿所となりぬ、依て会所掟書を定めらる。
   一、御役人中様御通行被遊候節、不禮不仕候様、入念相慎可申候。惣而諸人応対共叮嚀ニ心掛、兼々会所居合之モノ相互ニ可申合候事、右之通、平生急度相守可申候。以上
    申三月                   会所