蝦夷地に関する古文書は多いが、郷土南茅部を書き記したものは、道史の古文書、文献の中では極く稀れである。
東蝦夷地へ陸路を行くときは、箱館より亀田、大野、大沼、茅部(砂原)よりエトモ(室蘭)へ向かう。
海路をとれば、松前、函館より恵山をまわり、一路エリモ岬を目指し厚岸、根室へ渡海する。
道央や東蝦夷地へ向かう旅程に、郷土がその道筋に入ることはほとんどなかったから、古い文献に登場することは極めて稀であった。
松浦武四郎は弘化二年(一八四五)八月二二日、森町を出立してカカリ澗村の〓に宿る。旧暦(陰暦)の八月下旬である。
土人にすすめられるまま二三日、駒ヶ嶽に登る。
翌二四日、カカリ澗を出立して砂原村より砂崎・沼尻・明神をすぎ松屋崎、テケマ、モノミ浜、ホンベツ、シュクノッペ川、鹿部村。
ザル石・トコロ川・五段滝・ホロを越えて磯屋に来る。山間の温泉をきき、山に入って笹小屋の湯元に泊る。
この夜、昆布採りの漁師たちが酒肴を携えて来て、一夜語り明かす。
二五日、熊泊をゆき昆布小屋がつづき、その屋根に干す昆布におどろく。
臼尻に至り華美な弁天社をみ、鰤の回遊と網のないのを歎いて記す。川汲をすぎ尾札部の会所に泊る。
翌二六日、海路椴法華村に至り恵山の焼山に登る。
箱館に至る。
武四郎はそののち弘化四年(一八四七)五月一一日、友人井口較を訪ねて、箱館より上湯川村を経て野田府、川汲峠を越えて川汲湯泉に来遊した。
蝦夷日誌を編んだとき、巻五にこれを合わせて誌している。
旅にゆき、行く所の地名行程を記し、触れるもの、見るもの、聞いたこと、会った人のことまで詳しく誌している。物産・上納金・歩役のすべてを調べつくして事細かに詳しく、誤るところがない。