古填時代前期には、東北地方南部では四世紀に属する福島県会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳や宮城県遠見塚(とおみづか)古墳(写真1)などに代表される前方後円墳が五〇基前後を数えるとされ、この時期の集落跡、さらには豪族居館と考えられる遺跡も確認されている。
写真1 遠見塚古墳
古墳を指標として概観した東北地方のこの時代のなかで、東北地方北部では三世紀末から四世紀前半代には、弥生時代の指標であった稲作農耕を欠き、食料採集に生活基盤をもつ北海道系の続縄文文化の遺物が多くみられるようになり、古墳文化の影響を考えるよりも、むしろ続縄文文化の圏内そのものといってよいような様相を呈(てい)している。その分布は、太平洋側では宮城県、日本海側では新潟県にまで認められる。五所川原市隠川(かくれがわ)(11)遺跡では、続縄文文化の江別C2・D式土器と東北地方南部の土師器(はじき)編年の塩釜式土器が出土しており、現在のところ、これが県内最古の土師器と考えてよいであろう(図1)。
図1 4世紀代の土器
古墳時代中期になると、古墳の分布密度と範囲はさらに濃く広がり、それとともに東北地方南部の社会および生活様式などに変化が起こったと考えられている。そして五世紀末の東北地方北部には、日本最北の前方後円墳である岩手県角塚(つのづか)古墳がただ一基、北上川中流域に造営されるのであるが、この時期の集落自体は続く後期後半以降と比較して極めて少ない。