かなり後世のものであるが、南津軽地方にはその延久蝦夷合戦を契機に南からの勢力の浸透があったという推測を可能にしてくれる伝承が残されていることにも注目できる。とくに明治五年から九年にかけて編纂された『新撰陸奥国誌』に記されている、弘前市の乳井福王寺(明治初めの廃仏毀釈によって現在は乳井神社・写真73)の創建・開発に関わる縁起は重要である。
写真73 乳井神社(弘前市)
それによれば、福王寺は坂上田村麻呂の創建になるが、いったん荒廃したものを承暦二年(一〇七八)、白河天皇の勅願により「東夷調伏」のために毘沙門天を勧請して建立されたという。承暦二年は延久合戦から八年後、戦乱の余燼(よじん)もほぼ収まった時期である。この再興を担ったのが「十一代社務」となった養寛という人物で、養寛は甲斐国から「十二坊衆徒」を引き連れて乳井の地に至り、福王寺を再建、十二の子院を開いたという。しかも彼は沢田古館に住み、その地の人々を指導して「長崎村より高畑まで」高二千石余を開発した上に、猿賀山神宮寺の別当職も兼帯して、その所領千石も領知したと伝えられている。ここにみえる「白河天皇の勅願で承暦二年に福王寺が建立」されたという伝承は、『津軽一統志』などにも記されており(史料四六六・四六七・写真74)、中世末までは確実に遡ることのできるものである。
写真74『津軽一統志』福王寺
さらに興味深いのは、その福王寺の山号が「嘉承山」とされていることである。「嘉承」とは、白河上皇の院政下で堀河天皇の最後の時代、一一〇六~八年の年号であり、長治(一一〇四~一一〇六)をはさんで藤原清衡が平泉を開府したとされる康和年間(一〇九九~一一〇四)にすぐ続くものである。この山号もまた、すでに菅江真澄が『栖家の山』で推測しているごとく、乳井福王寺が嘉承年間=堀河天皇の代(すなわち藤原清衡の時代)に、寺院として正式に開山されたことを想像させるのである。