後三年合戦後に、清原氏に代わって、すでに出羽城介の権限をも吸収していて巨大な軍政権を握る職となっていた鎮守府将軍として現地に赴任してきたのは藤原実宗・基頼といった摂関家一族であった。清衡はその下で「俘囚之上頭」(史料五一四)として、国衙在庁の軍政官である国押領使のような職務を任されたらしい。とくに藤原基頼は、『尊卑分脉』という系図に「出羽・常陸・北国凶賊を討つ」とあって(史料五〇二)、八年間の在任中、清衡らを伴って院政政権の北方政策を強力に遂行していった。清衡がその本拠を江刺郡豊田館から磐井郡平泉に移すのもこのころのことである。
当時、奥六郡の東と北には閉伊・久慈・糠部といった新たな郡が設けられており、出羽国北部は陸奥国の管轄となって鹿角郡・比内郡が置かれ、青森県東部は糠部郡域に(ただし糠部については郡と認めない学説もある)、西部は津軽諸郡が設置された(青森県域の建郡の具体的時期については確説がない。詳しくは次項で述べる)。本州最北端まで朝廷の支配下に置かれ、成立間もない北方の経営には、地域の実情を知る人物が不可欠だった。清衡の実質的な支配地域は、現在の青森県・岩手県・秋田県のほぼ全域にわたっていた。絶大な資産と権力を手に入れた清衡は、大治元年(一一二六)、中尊寺に一五〇〇人もの僧侶を集め、大規模な法会を営んだ。中尊寺大伽藍の落慶法要である(写真76)。
写真76 中尊寺金色堂中央壇
大治三年(一一二八)、清衡が七三歳で亡くなると、相続をめぐって長男惟常と弟基衡との間に対立が生まれた。基衡は惟常を襲撃し、討ち果たすことで二代目の地位を得た。
基衡は清衡から受け継いだ地域をよく経営し、やがて国府多賀城にも影響力をもつまでに成長すると同時に摂関家に近づき、濃密な関係を築いた。基衡が京の仏師運慶に注文した毛越寺本尊の薬師如来があまりに見事なもので、鳥羽上皇が京から持ち出すことを禁じたとき、上皇を説得したのは関白藤原忠通だった。また先にも触れたように、上皇の近臣で以降の陸奥守や鎮守府将軍を一族で歴任する藤原基成と婚姻関係を結ぶなど、国府多賀城の政治的な懐柔に力を注いだ。毛越寺を建立し門前を政治・経済の中心地として、宗教の地、中尊寺周辺から分けることで「都市・平泉」の基礎を築いたのも基衡であった(写真77)。
写真77『津軽一統志』毛越寺の造立
嘉応二年(一一七〇)、秀衡は従五位下に叙せられ鎮守府将軍に任じられた(史料五二四)。これについては本章第二節一に詳しい。当時「征夷」の役所としての古代以来の鎮守府はすでになく、名目上、陸奥守が兼任することになって久しい職であったが、のちに木曽義仲と源頼朝の対立が表面化すると、後白河法皇の「鎮守府将軍秀衡」宛の下文で「陸奥出羽両国の軍兵を率い、頼朝を討つべし」と書かれるなど、軍事的な「奥州の支配者」として認められた職名として使われている。もっともそれは「南進」を指示するもので異例であるが。
秀衡のもう一つの顔は「源義経の庇護者」としての側面である。平家とつながりが深く、その強い後押しで養和元年(一一八一)には地方武士としては初めて国主・陸奥守に任ぜられた秀衡であったが、平泉にやってきた義経を養育し、また兄・頼朝に追われて平泉に落ち延びた義経をかくまった。しかし文治三年(一一八七)、泰衡に家督を譲り、義経を守ることを誓わせてこの世を去った。