宝暦の飢饉

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続く宝暦の飢饉でも八戸藩では、史料によって数値は違うが、四〇〇〇人から七〇〇〇人といわれる犠牲者を出し、『八戸藩史料』によると逃散も含めての数字であろうが、人口は一年間で二万人もの減少になっている。他の北奥諸藩でも同様で、盛岡藩では四万九四九五人の餓死者(「篤焉家訓」による。ほかに遠野通一一五一人)、仙台藩では全体で二万人程度の餓死者(『宮城県史』二二)を出したという。八戸藩表高二万石のうち一万八五七三石の損毛(そんもう)、盛岡藩表高一〇万石のうち七万七一七〇石の損毛であった。凶作は日本海側の諸藩にも及び、地域によっては水害虫害も加わり被害を大きくした。
 この年もまた冷害に見舞われ、雪の消えるのが遅く、四月から八月までヤマセが吹き、さらに雨が降り続いて寒く、夏のさなかでも春の彼岸のような気候であったという(資料近世2No.一)。八月中には二度の霜害を受けて、成育がよくみえた田畑も立ち枯れて、ついに大凶作に至った。深沢・上磯(かみいそ)・下磯(しもいそ)および三新田では田畑がいっさい稔らず、十月に藩が幕府に届けた損毛表高四万六〇〇〇石のうち三万四二八〇石、新田一九万六三五三石余のうち、一六万一一三〇石であった(同前No.二)。