表42は、この文化四年(一八〇七)から文政五年(一八二二)までの、蝦夷地警衛形態を一覧にしたものである。松前・江差・ソウヤ・北蝦夷地(サハリン、カラフト)が主たる勤番地であり、毎年半数以上の越年者がいることがわかる。
表42 文化4年から文政5年に至る津軽弘前藩の蝦夷地警衛形態 |
場 所 年 代 | 北 蝦 夷 地 | ソ ウ ヤ | 松 前 | 江 差 | ヤ ケ イ ナ | ト ウ ヘ ツ | エ ト ロ フ | シ ヤ リ | 手 塩 | リ イ シ リ | 台 場 受 持 | 渡 海 総 数 |
文化 4年 | (230) | (150) | (100) | (23) | (100) | 1002 | ||||||
5年 | 181 (100) | 264 (50) | 73 | 708 | ||||||||
6年 | 111 (7) | 107 (50) | 103 (70) | 50 (50) | 105 | 513 | ||||||
7年 | 178 (100) | 91 (50) | 100 (50) | 50 (50) | 419 | |||||||
8年 | 126 (100) | 66 (50) | 100 (68) | 60 (50) | 352 | |||||||
9年 | 126 (100) | 66 (50) | 100 (68) | 60 (50) | 352 | |||||||
10年 | 126 (100) | 66 (50) | 100 (60) | 50 (50) | 75 | 79 | 506 | |||||
11年 | 126 (100) | 66 (50) | 100 (60) | 50 (50) | 352 | |||||||
12年 | 100 (100)ヵ | 12 | 112 | |||||||||
13年 | 100 (60) | 12 | 112 | |||||||||
~ | ~ | ~ | ~ | |||||||||
文政 2年 | 121 (60) | 12 | 113 | |||||||||
3年 | 100 (60) | 12 | 112 | |||||||||
4年 | 100 (60) | 12 | 112 | |||||||||
5年 | 100 (60) | 12 | 112 |
注) | ( )は総年者数。「大都一覧」,「聞見録」,「記類」巻4によって作成。渡海総数と各場所詰人数合計が一致しないのは,帰弘したり病死した者がいたためである。なお,文化5年には高嶋に191人(100)が加わり,同6年には,この外に北蝦夷地に52人を派遣。 |
なお、文化十二年以降、警衛体制が大幅に縮小され、警衛地も松前一ヵ所と台場(だいば)の守衛に限定された。それはエトロフ襲撃事件の報復もあって、文化八年にクナシリで捕らえられていたゴローニンが同十年に釈放され、ロシアとの間に一応の妥協が成立し、北方の緊張が緩和されたためである。当藩の蝦夷地警備はこうして文政五年に一応のピリオドを打つことになる。
以後の沿岸警備と安政の開港以後の蝦夷地警備については、本節三および本章第五節二で述べることにする。