東西蝦夷地直轄下の勤番体制

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文化四年三月の松前および西蝦夷地の上知決定に伴い、翌四月、津軽弘前藩盛岡藩とともに蝦夷地永久警備を命じられた。当藩は二五〇人と、西蝦夷地上知に伴う新たな勤番人数を用意していたが、エトロフ襲撃事件への増援要請が箱館奉行からあったことから、同年五月、当藩では竹内源太夫を士大将として、総勢五八七人を派して警備に当たらせることにした。この年の各勤番所の越年者を加えると、総人数は一〇〇二人にのぼった。今回の増援要請は津軽弘前・盛岡両藩以外にもなされ、秋田・鶴岡両藩も出兵している。四藩の総動員数は三〇〇〇人を超えたとされる。翌五年には秋田・鶴岡両藩に代わって仙台藩会津藩が出兵し、四藩の総動員数は四〇〇〇人に及んだという。
 表42は、この文化四年(一八〇七)から文政五年(一八二二)までの、蝦夷地警衛形態を一覧にしたものである。松前・江差・ソウヤ・北蝦夷地(サハリン、カラフト)が主たる勤番地であり、毎年半数以上の越年者がいることがわかる。
表42 文化4年から文政5年に至る津軽弘前藩蝦夷地警衛形態


































文化
4年
(230)(150)(100)(23)(100)1002
5年181
(100)
264
(50)
73708
6年111
(7)
107
(50)
103
(70)
50
(50)
105513
7年178
(100)
91
(50)
100
(50)
50
(50)
419
8年126
(100)
66
(50)
100
(68)
60
(50)
352
9年126
(100)
66
(50)
100
(68)
60
(50)
352
10年126
(100)
66
(50)
100
(60)
50
(50)
7579506
11年126
(100)
66
(50)
100
(60)
50
(50)
352
12年100
(100)ヵ
12112
13年100
(60)
12112
文政
2年
121
(60)
12113
3年100
(60)
12112
4年100
(60)
12112
5年100
(60)
12112
注)( )は総年者数。「大都一覧」,「聞見録」,「記類」巻4によって作成。渡海総数と各場所詰人数合計が一致しないのは,帰弘したり病死した者がいたためである。なお,文化5年には嶋に191人(100)が加わり,同6年には,この外に北蝦夷地に52人を派

 なお、文化十二年以降、警衛体制が大幅に縮小され、警衛地松前一ヵ所と台場(だいば)の守衛に限定された。それはエトロフ襲撃事件の報復もあって、文化八年にクナシリで捕らえられていたゴローニンが同十年に釈放され、ロシアとの間に一応の妥協が成立し、北方の緊張が緩和されたためである。当藩の蝦夷地警備はこうして文政五年に一応のピリオドを打つことになる。
 以後の沿岸警備と安政の開港以後の蝦夷地警備については、本節三および本章第五節二で述べることにする。