祈祷の地としての南溜池

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国日記」享保十年(一七二五)六月十日条によれば、大円寺に「渇水」につき「雨乞之御祈祷」が命じられた。次いで、翌日には大行院に「請雨御祈祷」が命じられ、白狐寺境内の南溜池に張り出した出崎に壇場を設定して、導師と山伏合わせて二六人が祈祷を行うというものであった(「国日記」享保十年六月十一日条)。
 また「国日記」同年六月十七日条によれば、このたびの雨乞いは、領内の田畑のみならず、「弘前町中」の井戸が枯れ、町人たちが難渋しており「神明宮」の神主に依頼して、南溜池で神楽を奏し、灯籠(とうろう)を出してうちそろって雨乞いをしたいという希望を、町年寄藩庁に出した。結局は、「神明宮」の神楽は同宮にて行い、「神明獅子舞」と太鼓をはやし、灯籠を多数出して雨乞いを行いたいとする、町年寄の申し出に落ち着いた(「国日記」享保十年六月十九日条)。「平山日記」享保十年の条によれば、同年七月七日の夜に雨が降ったとあるので、六月十九日以降の「国日記」に雨乞い関係の記事がみえないのはそのためであろう。なお『永禄日記』享保十年の条によると、弘前の町人たちが一軒につき灯籠一つを持参して南溜池に参集して神楽を奏し、多数の見物人が繰り出し死者まで出たという。