前項でみた嘉永六年(一八五三)十二月の生活規制は、実は在方・農村に対する条項の方がはるかに多い。こまごまとした服装規定のほかに、たとえば庄屋以外は脇差をさしてはならない、既婚女性は武家の妻をまねて眉を剃り落としてはならない、農民の妻子は日傘を用いてはならない、頭にかぶるものに唐(から)風呂敷を使用してはならない等々、細微にわたる規制が農民にしかれていた。これから判断する限り、農村は町場より平和で、変容が少ないとは言い切れない。農村もまた時代のうねりの中で変わっていたのである。
幕末期の農村で起こった深刻な事態に貧富の差による階層の両極分解が挙げられる。文久二年(一八六二)七月五日、藩は旅人と在方の取り締まりに関する布令を発したが、その中でそのころ在方で頻発していた放火に関し、次のように分析している。つまり、巷(ちまた)では放火の犯人は不法な旅人とみているようだが、そうとは限定はできない。在方の小者たちは先祖から所持してきた田畑を村の重立(おもだち)によって買収されており、生活は困難を極めている。土地を失った者は秋になって年貢を納めれば、残りの七~八割を地主に取られ、翌年の二・三月には食い詰めてしまう。そこでまた重立より高利の米金を借りるしかなく、年々疲弊(ひへい)している。そこに近年の物価高騰で生活が完全に成り立たなくなり、土地を取り上げられた恨みから前後の思慮もなく放火や盗みをするというのである(資料近世2No.四九〇)。
貧農や細民による放火の対象は村の重立だけとは限らない。富裕な階層は全員下層階級の報復を受ける恐れが現実にあった。弘前の豪商金木屋では万延元年(一八六〇)四月二日の日記で、青森でも火事があり、近頃は所々に不審な苞(つと)物(わらに包まれた不審物)が置かれ、「よし野」という「御夢想」(虚無僧(こむそう)か)が評判で、そのお告げによると今日から八日前後に火難を逃れられないと、皆が評判をしていると心配している(同前No.四八六)。町方・在方を問わず、一瞬にして生命・財産を奪いかねない放火の陰には時代の矛盾が深く根ざしていた。