弘前藩の対応

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このように、両極に立った戦争説明と出兵命令が幕府・朝廷の双方から出されたが、そのために混乱も大きかった。上位権力に左右される諸藩にとっては、ことのほか慎重に行動することが必要であり、時局を正確に見極めることがなによりも優先すべきことであった。藩の対応として、江戸表では、一月二十一日、緊迫した状況下に、家老より江戸詰家臣へ向け、残らず帰国命令が出された(資料近世2No.五〇八)。一方、国元では一月二十四日、家中御目見以上惣与力までを登城させ、一連の報を受けた藩主津軽承昭が諭告を出して現状を説明し、藩内の意志統一を図った(『津軽承昭公伝』一九七六年 歴史図書館社復刊)。それは、国内情勢の変化をとらえることが難しいことを告白し、そのうえで、どのような状況となっても「皇国永世」のために動くこと、出兵の可能性もあり、その際は尽力することを述べるものであった。

図45.馬上の津軽承昭

 しかし、この中では、藩は幕府側にも朝廷側にもつくことを明示してはいなかった。勤皇の姿勢をとるが、なにをもって勤皇とするかについては断定できる状況になかったのである。情報が錯綜し、状況が不透明な中では、まず藩体制を守ることを最も重要視することで、意識統一を図ることとなった。具体的には、北辺の守りを国務として、海岸防御と武備充実を説き、藩士に意識の統一を促していた。
 翌二月一日には、今度は新政府側からの見解が国元へ届けられた。これを受けて、二月四日に再び藩士が城に集められ家老からの口達が出されたが、ここでも、征討の義が述べられ、勤皇の姿勢には変わりはないが、状況は依然不透明なため、藩士には軽挙をとどめ身を慎むことを諭した。つまり、基本姿勢は二十四日と同様であったのである(『弘前藩記事』一)。
 この時期はいまだ新政府旧幕府側との争いの決着の方向はみえず、両者からの出兵要請を受けたものの、藩では、領地が僻遠にあること、武備が不十分であること、軍勢を出そうにも積雪期でそれが不可能なこと等を理由にしてどちらの参陣命令にも応じず、情報収集と武備充実に努め、中央政局の行く先を見極めようとしていた。
 情報の出入りをみると、たとえば藩の京都詰藩士工藤峰次郎が、薩兵が兵端を開いたという風聞があることを弘前へ伝えている(「工藤峰次郎見聞書写」平尾魯仙『明治日記』青森県立図書館郷土双書第二巻 一九七〇年)。こうした風聞も重要な情報の一つとしてもたらされていた。小刻みに変動する中央政局の正確な情報を手に入れにくかった同藩などには、伝聞による情報も一つの貴重な判断材料であった。工藤のもたらした風聞では、戦端を開いたのは新政府側であるとしており、新政府の表明した見解と旧幕府側の見解とでは、後者の主張の方に信憑性があるということになる。しかし、現実に時代の主導権を握り、優位を得ているのは天皇を掌中においた新政府側であった。