西館宇膳は四月七日に飛脚をもって応援出兵命令等を弘前へ申し送った(資料近世2No.五二二)。これに対して国元では、早速家老杉山八兵衛の仙台派遣を決め、応援兵派遣へと準備しはじめることになる。
杉山八兵衛の仙台派遣は、西館宇膳より諸藩が次々と総督府に使者を送っている様子が伝えられたことに基づく判断であり、諸藩の動向に合わせた対応であった。弘前藩としては、庄内藩の罪状に疑念を抱きながらも、命令が出された以上、速やかに対応する必要があると判断したのであろう。
四月十四日には、派兵協議のために、工藤嘉左衛門に秋田への出張を命じ、翌十五日には、御目見以上の諸士に討庄応援命令沙汰書を公表した。四月十六日、杉山八兵衛は、弘前を出発して仙台へ向かった。三日後の十九日には、これと入れ違いに西館宇膳が帰藩している。藩庁では、西館よりその見聞を聴取して、さらに今後の対応について協議を重ねていったことであろう。
さらに四月二十日には、先遣隊として松野栄蔵隊へ急ぎ出兵を命じた。そして、四月二十二日に、討庄応援部隊の本隊編成が発表された(同前No.五二三)が、部隊構成は御目見以上が二二〇人、軽卒二八七人、その他七三人、合計五八〇人からなり、うち、戦隊は三一〇人であった。これは弘前藩の兵員規模からみて最大級の規模であった。
続いて、二十五日には館山善左衛門隊、二十九日には久保田甚之進隊、閏四月二日には対馬仙蔵隊、石山真太郎隊の砲隊二組、八日には白取数馬隊の各隊をそれぞれ派遣している(資料近世2No.五二四)。このように、弘前藩の討庄応援兵が城下から続々と出立していくようになった。
ところで三月初旬、松前湾に到着した総督府一行は、三月二十三日、藩主伊達慶邦(だてよしくに)の迎えで仙台養賢堂(ようけんどう)に陣を敷いた。そして、仙台藩が、総督府に従う方向をみせていた藩執政の三好監物と坂本大炊を藩中枢から退けるという動きを示す中、総督府は世良修蔵らを中心に高圧的に征討を強行しようとした。四月二日、庄内征討の嚮導を出羽矢島藩に命令し、六日に秋田藩には庄内征討命令を、弘前藩にはその応援命令を下すという運びであった。したがって十日には、総督府は沢為量副総督の庄内出張を発表し、沢率いる薩長兵二〇〇人から成る総督軍が十四日出兵を開始した。そして、二十三日には総督府討庄軍の本陣を新庄に置いていたのである。
弘前を出発した杉山八兵衛は、新庄へ到着して滞陣中の沢副総督に会い、その様子を四月二十五日付の書状の中で、国元へ討庄応援の請書を提出したと報告した(「御用留書」弘前市立図書館蔵)。
沢為量に会った後、新庄を出発した杉山八兵衛は、四月二十八日に岩沼へ到着して、翌二十九日、予定どおりに九条総督へ機嫌を伺い、閏四月一日には、さらに白石へ進み、ここで仙台藩主伊達慶邦への使者を勤めたのであった。
このように、情報が錯綜し、使者の往来が頻繁になったことにも現れているとおり、中央情勢も、奥羽周辺の状況もますます混沌としたものとなりはじめていた。その中で、弘前藩は、政府・諸藩の動きから、何らかの意思表明をすることを強いられる時期にさしかかっていたのであった。