雪が消えるとともに待ちかねていた軍艦が青森湾に集結し、出兵の条件が整った政府軍はすぐに行動を開始した。四月四日、蝦夷地への上陸作戦とその陣容が発表された。それによると、先鋒となるのは、長州藩三〇〇人、弘前藩三〇〇人、福山藩三〇〇人、松前藩四〇〇人、大野藩一〇〇人、徳山藩一〇〇人の計一五〇〇人で、乙部村へ上陸し、松前口・唐沢部口・熊石辺りの探索という三手に分かれて進撃を行うことになった。
これを受けて、弘前藩主津軽承昭(つぐあきら)は翌五日、松前へ渡海する藩兵へ激励書を送った(資料近世2No.五六五)。
四月六日、軍艦春日・甲鉄・丁卯・陽春と輸送船飛龍・大坂・ヤンシー(米国より雇入の商船)・豊安に各藩兵が分乗し、出航を開始した。また、同時に、箱館を訪れていた外国の領事に対しては、征討戦を開始する旨を通知し、また、居住民へ避難を促した。
陸上部隊は先鋒隊を無事上陸させた輸送船の往復によって、続々と上陸を遂げた。弘前藩兵は、四月六日、都谷森甚彌(とやもりじんや)指揮下の銃隊四小隊と木村杢之助(もくのすけ)指揮下の銃隊四小隊がまず出兵した。次いで、四月十五日、都谷森銃隊四小隊・砲隊一隊と木村銃隊四小隊・砲隊一隊が出帆。さらに、四月十八日には、木村銃隊二小隊、合計二〇二二人が陸上部隊として、出兵したのであった。青森からは次々と物資や人員が輸送され、こうした後方支援は政府軍の大きな力となった。
さて、四月六日に青森を出航した艦隊は、悪天候に見舞われたため、八日まで平舘辺りにとどまっていたが、同日に再び出航し、いよいよ四月九日、旧幕府軍の隙をついて乙部村へ上陸した。上陸後の様子は次のようなものであった(同前No.五六六)。
乙部村の住民は政府の艦隊を認めると、陸へ渡るための橋船三隻を提供し、官軍を受け入れた。そこで状況を聞くと、それまで旧幕府軍の番兵が二人居合わせたが、艦隊の来航をみてあわてて逃げ去ったという。その情報により、政府軍はあらかじめ決められていたとおりの順番で陸軍部隊が上陸を果たしたのであった。ヤンシー号に乗り合わせていた弘前藩兵は、福山藩の次に蝦夷地へ降り立った。
上陸作業が進む中で、村役人が山上に四〇人ほどの旧幕府軍が襲来してきたことを伝えた。彼らは、三木軍司が率いる一連隊三小隊で、江差(えさし)を守っていた兵である。
政府軍の対応は素早く、上陸を終えた松前・大野藩兵などが直ちに布陣して反撃した。たまらず旧幕府軍は敗走し、上陸を終えた政府軍は松前藩を先頭に、江差・松前方面・木古内(きこない)間道方面・二股(ふたまた)間道方面に分かれ、直ちに進撃を開始した。加えて江差方面からは艦隊の援護射撃もあり、旧幕府軍はこの日、石崎村付近まで退いたのである。
しかし、江差を奪われた旧幕府軍も、松前詰めの隊と合流し、態勢を立て直して再び政府軍へと向かっていった。そして、既に松前近くまで進軍してきた政府軍と根部田(ねぶた)村(現北海道松前郡松前町)付近で衝突し、政府軍を江良町(えらまち)(同前)まで押し戻していった。