(三)住居

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 武家町は全体として城を囲むような形でその周辺に配置されているが、身分・格式の高い者は通常、城の近くに置かれ、特に家老級の重臣は城の外郭内に広い屋敷に大きな家屋を持つことが多かった。下級武士は身分・職掌によってまとめられ、さらに軽輩である足軽・小者(こもの)などは武家町から離し、町人町の外側の周辺部分や、城下への出入口近くに配置されることも多かった。武家屋敷には冠木(かぶき)門があり、そこが入口である。屋敷の面積と家屋は身分による広狭の制限があったことはいうまでもない。下級武士の住宅は玄関がなく、台所から出入りするのが特色であった。屋根は避遠の地の城下町では、幕末まで茅葺・板葺・藁葺が多かったと思われる。このような景観は程度の差こそあれ、どこの城下でもほぼ共通していた(『生活史』Ⅱ 一九六五年 山川出版社刊)。
 弘前城下に配置された武家町は、寛永(一六二四~四四)末年ころの「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)と、慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)によれば、弘前城を中心として、
城西――本百石町(もとひゃっこくまち)(後に馬屋町(まやちょう))・鷹匠町(たかじょうまち)・五十石町(ごじっこくまち)
城北――御徒町(おかちまち)・小人町(こびとちょう)
城東――侍町(現百石町(ひゃっこくまち))
城南――侍町(現在府町(ざいふちょう))

がみられ、郭内の二の丸・三の丸に重臣の邸宅があり、正門である北門(きたもん)(亀甲門)を入ると四の郭(袰町(ほろまち)とも呼ばれる)で、そこには軽輩の屋敷があった。
 右の城内にあった武家屋敷は、元禄九(一六九六)から十二年にかけて城外に移転させられ、さらに宝永二年(一七〇五)には残っていた屋敷が移り、武家屋敷郭外移転は終了したのである。その後、城下武家町は、寺社街の移転、町人町の形成、藩政の動向などとの関連で、発展と変遷をたどることになる。