弘前城下に配置された武家町は、寛永(一六二四~四四)末年ころの「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)と、慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)によれば、弘前城を中心として、
城西――本百石町(もとひゃっこくまち)(後に馬屋町(まやちょう))・鷹匠町(たかじょうまち)・五十石町(ごじっこくまち)
城北――御徒町(おかちまち)・小人町(こびとちょう)
城東――侍町(現百石町(ひゃっこくまち))
城南――侍町(現在府町(ざいふちょう))
城北――御徒町(おかちまち)・小人町(こびとちょう)
城東――侍町(現百石町(ひゃっこくまち))
城南――侍町(現在府町(ざいふちょう))
がみられ、郭内の二の丸・三の丸に重臣の邸宅があり、正門である北門(きたもん)(亀甲門)を入ると四の郭(袰町(ほろまち)とも呼ばれる)で、そこには軽輩の屋敷があった。
右の城内にあった武家屋敷は、元禄九(一六九六)から十二年にかけて城外に移転させられ、さらに宝永二年(一七〇五)には残っていた屋敷が移り、武家屋敷の郭外移転は終了したのである。その後、城下の武家町は、寺社街の移転、町人町の形成、藩政の動向などとの関連で、発展と変遷をたどることになる。