天明八年(一七八八)から翌寛政元年までに記録したという前掲「奥民図彙」に農民の家屋がみえる。図にみえる屋根は茅葺きであり、棟の端に鎌が立ててある。結(ゆい)仲間(労働力交換の仲間)によって屋根の葺き替えが終わると屋根棟梁が、グシ(棟のこと)の両端に風を切るといって鎌を立て、上の方に向かって拝み、安全を祈るのである。これをオミキアゲという。そのグシに土を盛って雨を防ぎ、土止めに屋根草を植えることが多い(「奥民図彙」『日本農書全集』1 一九七七年 農山漁村文化協会刊の森山泰太郎・稲見五郎氏の解説文)。この図は一般農民の家屋と推定される。また家屋の内部はみえないが、構造は田の字型の間取りに土間と馬屋がついたものであったろう。
家屋内部には、「国日記」享保九年(一七二四)十月十五日条にみえる倹約令の第一五条によれば(資料近世2No.二一六)、畳は許されず、薄縁(うすべり)・菅(すが)・藁(わら)・筵(むしろ)を使用するよう規制されていた。これらが板敷か土間の上に敷かれたのであろう。さらに「国日記」寛政二年(一七九〇)二月十一日条では、村役人クラスの農民でも付床や畳縁・切縁の使用は許されず、部屋には国表(くにおもて)や七嶋蓙(しちとうござ)を、台所には菅を敷くよう規制された。座敷のない農民は菅を敷くよう規制を受けているので、家屋内に使用された敷物の種類が判明する。また屋敷の周囲、すなわち他との境界に当たる場所に、木の種類は不明だが生垣(いけがき)を作るよう指示されている(『御用格』寛政本 宝永元年十月条)。
図118.一般農家