家屋の規模と構造

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津軽弘前藩の平野部にある農村の屋敷地の面積は、貞享四年(一六八七)の五所川原村(現五所川原市)を例にとれば、一七五坪が基準で、住居の大きさは主屋(おもや)が約二〇坪と推定されている(盛田稔『近世青森県農民の生活史』一九七二年 青森県図書館協会刊)。弘前城下の近郊では、三〇坪以上五〇坪未満が非常に多く、それは村位が上または中が多い地域だからという(草野和夫『東北民家史研究』一九九一年 中央公論美術出版刊)。
 天明八年(一七八八)から翌寛政元年までに記録したという前掲「奥民図彙」に農民の家屋がみえる。図にみえる屋根は茅葺きであり、棟の端に鎌が立ててある。結(ゆい)仲間(労働力交換の仲間)によって屋根の葺き替えが終わると屋根棟梁が、グシ(棟のこと)の両端に風を切るといって鎌を立て、上の方に向かって拝み、安全を祈るのである。これをオミキアゲという。そのグシに土を盛って雨を防ぎ、土止めに屋根草を植えることが多い(「奥民図彙」『日本農書全集』1 一九七七年 農山漁村文化協会刊の森山泰太郎・稲見五郎氏の解説文)。この図は一般農民の家屋と推定される。また家屋の内部はみえないが、造は田の字型の間取りに土間と馬屋がついたものであったろう。
 家屋内部には、「国日記」享保九年(一七二四)十月十五日条にみえる倹約令の第一五条によれば(資料近世2No.二一六)、畳は許されず、薄縁(うすべり)・菅(すが)・藁(わら)・筵(むしろ)を使するよう規制されていた。これらが板敷か土間の上に敷かれたのであろう。さらに「国日記」寛政二年(一七九〇)二月十一日条では、村役人クラスの農民でも付床や畳縁・切縁の使は許されず、部屋には国表(くにおもて)や七嶋蓙(しちとうござ)を、台所には菅を敷くよう規制された。座敷のない農民は菅を敷くよう規制を受けているので、家屋内に使された敷物の種類が判明する。また屋敷の周囲、すなわち他との境界に当たる場所に、木の種類は不明だが生垣(いけがき)を作るよう指示されている(『御用格』寛政本 宝永元年十月条)。

図118.一般農家