(一)農作業と農事暦

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 農民の日常生活は、農作業を中心とする生活であることは、いまさらいうまでもない。また一年間の水稲栽培の方法は全国的にほぼ共通している。ここでは、津軽弘前藩が隔年に襲われたといってもよい凶作に、どのように対処していったのかみてみたい。
 最初に、水稲栽培は、次のような年間のスケジュールによって営まれていた。
 「国日記」宝暦三年(一七五三)十二月七日条に次のように記されている(資料近世2No.二一七)。
  一、桑田忠左衛門(月番郡奉行)申立候者、
   一、種浸初二月廿五日
   一、田打初三月十日
   一、種蒔初三月廿三日
   一、くれかき初四月二日
   一、田植初五月二日
   一、田草取初五月廿六日
   一、出穂初七月十日
   一、稲苅初九月四日
   一、稲村納初九月廿日
  右者当酉年耕作初前書之通御座候旨主水(月番家老津軽主水)江、書付江戸江差登之、(傍注筆者)

 右の記録によって、郡奉行桑田忠左衛門が農作業の結果を家老津軽主水へ報告し、さらに江戸藩主へ報告したことが判明する(この年藩主が参府中のため、江戸への報告であった)。

図120.田起こし


図121.田植え

 これによって一年間の農事暦が知られる。「国日記」によって、宝暦以降幕末までの田植えを始めた日、出穂(しゅっすい)がみられた日、稲刈りが開始された日などを年代を追って整理したのが、表33の津軽領全体にわたる農事暦略年表である。
表33.津軽領における農事暦略年表
田植開始年出穂日稲刈開始日備   考
宝暦3年5月2日7月10日9月4日「日記」宝暦3年12月7日条
豊作(平山日記)
宝暦4年4月21日6月1日8月8日「日記」宝暦4年12月7日条
宝暦5年4月28日7月12日9月16日「日記」宝暦5年12月10日条
凶作(平山日記)
宝暦11年5月6日7月3日8月25日「日記」宝暦11年12月22日条
平年作(平山日記)
明和元年4月29日6月26日
  27日
8月17日「日記」明和元年閏12月21日条
豊作(平山日記)
明和2年4月18日7月6日8月13日「日記」明和2年12月20日条
豊作(平山日記)
明和3年5月1日7月14日9月1日「日記」明和3年12月21日条
平年作(平山日記)
明和9年5月1日7月6日9月10日「日記」明和9年12月14日条
安永2年4月10日6月14日8月17日「日記」安永2年12月11日条
文化元年5月1日(記載なし)7月21日「日記」文化2年8月8日条
田植開始から稲刈開始まで80日
文化2年5月4日(同上)8月2日「日記」文化2年8月8日条
87日
文政4年5月1日(同上)7月23日「日記」文政5年7月10日条
82日
文政5年4月16日(同上)7月6日「日記」文政5年7月10日条
79日
文政11年4月20日(同上)7月13日「日記」文政12年7月28日条
79日
文政12年5月2日(同上)7月24日
(8月16日?)
「日記」文政12年7月28日条
82日
「日記亅文政12年12月28日条によれば、稲刈開始が8月16日とある。
平年作(米穀直段留扣帳 弘前市立図書館蔵)
天保4年4月22日(同上)8月7日「日記」天保5年7月20日条
104日
凶作(米穀直段留扣帳)
天保5年4月28日(同上)7月15日「日記」天保5年7月20日条
76日
大豊作(米穀直段留扣帳)
天保6年5月10日(同上)閏7月11日「日記」天保6年閏7月15日条
91日
半作(米穀直段留扣帳)
注)宝暦元年以降の「国日記」より作成。

 この年表によれば、安永二年(一七七三)まで稲刈りの開始が最も早いのは八月八日であり、最も遅いのが九月十六日である。したがって、稲刈り開始の日が宝暦三年から安永二年までは、八月上旬から九月中旬まで、約一ヵ月強の幅があったことになる。宝暦五年九月十六日の稲刈りは凶作のためであり、明和九年(一七七二)九月十日は、豊凶の記録がないが遅い稲刈りの期日から凶作と推定され、東風(やませ)による冷害で成熟が遅く、稲刈りも遅くならざるをえなかったのであろう。
 文化元年(一八〇四)以降の年表によれば、稲刈りは七月上旬から八月上旬までに始まっており、宝暦三年~安永二年(一七五三~七三)の稲刈り開始日より一ヵ月ほど早く、田植えから約八〇日間で成熟している。ただし、天保四年(一八三三)は一〇四日、同六年は九一日で稲刈りが開始されているのは、例年より冷涼で実りが遅く大凶作と半作であったことによると思われる。
 この年表では、安永二年から文化元年(一七七三~一八〇四)まで約三〇年間の空白があるが(「国日記」に記載がないため)、その間に天明の大凶作による大飢饉があった。この経験を踏まえ、冷害対策として藩では強い指導を行ったので、農民晩稲(おくて)中心の栽培から早稲(わせ)中心に切り換えたのであろう。そのため稲刈りが、一ヵ月も早くなったようである。

図122.稲刈り