陶磁器とは焼き物の総称であるが、ここではその中の陶器と磁器を主対象とする。両者の大きな違いは、陶器は粘土を主な原料とし、磁器は陶石(主成分が長石(ちょうせき)や石英で白く磁器に適する)を原料にしている点である。焼成温度は一般的には磁器の方が高く(約一三〇〇度)、津軽焼など多くの民芸の焼き物は陶器であり、これに対して白く透明性のあるのは磁器である。
「国日記」によると、江戸中・後期を通じ津軽領における陶磁器の調達は、領内の製品と唐津(からつ)船などによって移入された唐津物(からつもの)(陶器の別称の場合もあるが、本項では唐津焼・伊万里焼(いまりやき)〈有田(ありた)焼〉など北九州系陶磁器や瀬戸系陶磁器を主とする)で賄われていた。
ここでは「国日記」の陶磁器関係の記録によって、その他関係史・資料の記述も取り入れ、領内における陶磁器の製造と移入および利用などについて述べる。
製陶については、「国日記」延宝二年(一六七四)十一月四日条に、高原七右衛門(たかはらしちえもん)(高原焼陶師)が焼き物の書き付けを藩に進上し、高原焼の茶碗(楽(らく)茶碗)を二、三作陶して呈上する旨の記述がみえる。しかし本格的で継続的な製陶は平清水三右衛門(ひらしみずさんえもん)によって行われた。三右衛門は元禄五年(一六九二)から正徳五年(一七一五)ころまで作陶を続けており、その間藩用品を主として焼成し、また一般の需要にも応じていた。
三右衛門の後、文化年間初期(一八〇四~)ころまでは、安永八年(一七七九)に藩から招かれた羽州新庄(うしゅうしんじょう)(現山形県新庄)出身の摺鉢(すりばち)焼師草刈三平(くさかりさんぺい)らによる唐内坂(からないさか)(現市内常盤坂(ときわざか))における摺鉢の焼成がみられる程度である。製品は粗悪なため操業は数ヵ月で終わっている(「国日記」安永八年四月一日条ほか)。文化年間以降は悪戸(あくど)村(現市内悪戸(あくど)・下湯口(しもゆぐち)・野際(のぎわ)・扇田(おうぎだ)・青柳(あおやぎ))・下川原(したかわら)(現市内桔梗野(ききょうの))および大沢(おおさわ)(現市内大沢)・富田(とみた)御屋敷跡(現市内御幸(みゆき)町)などにおける製陶の記録が認められる。この中で悪戸と下川原は窯業として成立しえたものといえる。
なお、文政八年(一八二五)の大沢白焼瀬戸座(磁器の類。のちの下川原焼の瀬戸師金蔵による―慶応元年〈一八六五〉御用留書〈弘図津〉)と明治四年(一八七一)の富田御屋敷跡における焼成(京都瀬戸師吉兵衛による。京都清水焼の流れをくむ。―明治四年〈一八七一〉山林方書付留・同諸稟底簿(しょりんていぼ)〈弘図津〉)については、関係記録および遺品と称されるものが極めて少なく、ごく短期間で終わったのであろう。
陶磁器や瓦等窯業における生産方式や運営形態は時代や窯場等によって異なる。藩主導で行うとか、藩主導から民間助成に移行し独立採算で行わせるとか、最初から資金を貸与し独自の経営で行わせる(貸与金は年賦方式等で返済)などの方法がとられている。そのほか、自ら資金を調達し自営で行っている場合もある。瓦は文化年代(一八〇四~一八一七)以前は藩の御用として使用されていたので、その間は純然たる藩窯(はんよう)による生産ということになる。
以下、平清水三右衛門による作陶および悪戸村と下川原における製陶を中心に述べ、移入については記述の中で随時触れることにする。