貞享二年(一六八五)の町支配控に、池田源兵衛の名がある(前掲『津軽塗』)。源兵衛は小浜藩(現福井県)から招かれたといわれ、この源兵衛とその子源太郎によって、これまで黒塗・朱塗・蒔絵を主体としてきた漆工が、変わり塗技法へ移行する端緒がつくられた。
池田源兵衛が津軽へ来たころの小浜藩の塗師たちは、変わり塗技法(色漆を塗り重ね、研ぎ出して平滑に仕上げる)を用いて漆器を製作し、これらの漆器は、若狭塗と呼ばれていた。小浜市の妙楽寺には、小浜藩の塗師三十郎が変わり塗技法で塗った文庫や硯箱が収蔵され、寛文元年(一六六一)と箱書きされている。同じころ金沢藩にも変わり塗技法があった。延宝六年(一六七八)ころ、金沢藩の細工所で展開されていた漆工芸を知り得る貴重な資料に『百工比照(ひゃくこうひしょう)』(一九九三年 石川県立美術館刊)がある。この中の色漆類は、総数一五〇種に及ぶ変わり塗の見本板であり、この中に「しもふり塗」「むしくい塗」「魚子塗(ななこぬり)」など、のちに津軽で塗られる技法の名称がすでにみられる。同じように元禄六年(一六九三)にまとめられた『若狭郡県志』にも、「魚子塗」「虫喰塗(むしくいぬり)」など、変わり塗漆器が若狭の土産品(みやげひん)として書かれている(杉原丈夫他『越後若狭地誌叢書』下巻 一九七三年 松見文庫刊)。
小浜藩と金沢藩の二つの地域で行われていた技法を身につけて津軽へ招かれた源兵衛は、さらに江戸の蒔絵師青海太郎左衛門のところへ貞享二年(一六八五)、修業のために行くが、翌年病死する。しかし彼の息子源太郎は父の遺志を継いで、津軽の蒔絵師山野井四郎右衛門のもとで漆芸の修業を積んだ後、青海太郎左衛門へ弟子入りし、青海波塗を会得して宝永元年(一七〇四)に帰国した。
父源兵衛と同じころに招かれていた塗師の扶持料は、大野山六郎左衛門が金七両五人扶持、大江宇右衛門が金八両五人扶持であったが、帰国したときの源太郎は、金三両二人扶持(「町年寄役人職人調帳」前掲『津軽塗』)と少ない扶持であった。それがのちに塗師頭となり、津軽における漆工の主流を占めるようになった理由は、江戸での八年間の修業で、他の塗師たちを圧倒する当時の最先端技法であった変わり塗を身につけてきたからである。