図195.浄土宗本末関係図
信政は、宝永五年(一七〇八)に江戸浅草の熊谷(くまがい)稲荷を新寺町に創建(現新寺町稲荷神社)し、別当白狐寺(びゃっこじ)を新たに造り、貞昌寺隠居入誉と弟子澄水に預けた。これは、幕府と藩の新寺建立禁止の布令に抵触する。元禄九年(一六九六)に「山崎専称寺並末寺由緒書」(資料近世2No.四〇六)、同十四年(一七〇一)に「浄土宗諸寺院縁起」(同前No.四〇八)が成立していて、白狐寺を古跡の復興として本山専称寺(せんしょうじ)へ届け出ることは不可能であった。このため入誉は寺社奉行と協議し、専称寺と系列の異なる黒谷の金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)へ古跡・無本寺であるので、末寺に連なることを願い出たものとみられる。入誉が貞昌寺入寺の際、現在廃寺になっている出羽国大館の青蓮庵が金戒光明寺の末寺であったことと(遠藤聡明「宝永五年の弘前新寺町稲荷神社の勧請と別当浄土宗白狐寺の造営」『仏教論叢』四三)、澄水の修学した光明寺(現鎌倉市)が白旗派に属することが金戒光明寺を頼った理由であろう。
白狐寺は藩主の意志で創建されたので、藩内では特に問題にならなかった(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰について」『市史ひろさき』八)。