貞昌寺

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貞昌寺(ていしょうじ)は、「山崎専称寺並末寺由緒記」(資料近世2No.四〇六)によると、永禄年中(一五五八~六九)に、開山を良貞、開基を為信として創建したとする。「浄土宗諸寺院縁起」(同前No.四〇八)は、永禄三年(一五六〇)、為信の実母が死去した時、岌禎(きゅうてい)が導師となり、戒名の桂屋貞昌大禅定尼から貞昌寺と名付けたという。また、為信は津軽建広へ嫁した娘富が慶長八年(一六〇三)死去すると、大光寺へ供養塔を建て岌禎に読経させた。また慶長十三年、為信の正室仙桃院が死去すると、岌禎が導師となり、戒名栄源院殿月窻妙林大姉として葬った。このため、山・院・寺号を月窻山栄源院貞昌寺とする。為信は寺領三〇石を寄進した。享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、阿弥陀仏・勢至・観音の阿弥陀三尊は為信の寄進とある。

図212.貞昌寺

 また、為信の娘伊喜が元和八年(一六二二)に死去し、長勝寺へ入棺した際、三世良城が信枚の帰依を受けていたところから、貞昌寺へ位牌をたて廟所を築いた。この時、信枚は新たに三〇石を寄進した。このように、藩主家の家族を葬っているため、裏方菩提所ともいわれた。
 弘前城下の形成に伴い、大光寺から元寺町へ移ったが、正保二年(一六四九)の火事で類焼し、翌三年に新寺町へ移転した。
 享保三年(一七一八)より治国利民のための一切経蔵建立を願い、領内一軒より一銭の奉加を行った(『平山日記』)。同七年には一切経が収められた(「国日記」)。