心応院(しんのういん)は、「社堂縁起」(資料近世2No.四一三)によれば、慶安三年(一六五〇)、木戸道壺(どうこ)が最勝院日雅に京都より得た薬師如来をみせ、熊野宮(現熊野奥照神社)境内に薬師堂を建てたことに始まるという。元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起修験道由緒」には、最勝院に属する山伏七人がみえ、その中心は心応院とみられるが、その役割についてはわからない。享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、大行院支配となっているが、弘化二年(一八四五)に心応院が病死の時に最勝院支配に移ったらしい。
宝暦元年(一七五一)には五穀成就の祈祷を行い、同二年には開帳によって薬師堂の屋根を修理する資金を調達した(「国日記」)。天保十年(一八三九)には、心応院の倅妙無が江戸鳳岡寺へ修業に出かけている。神仏分離の時に、心応院は神官となり、英縁と名のった(田中秀和『幕末維新期における宗教と地域社会』一九九七年 清文堂刊)。