稲荷宮(現
和徳稲荷神社)は、「
津軽一統志」によれば、創建を不詳とし、元和年間(一六一五~二三)に信枚が再建して、社領三石を寄進し、
最勝院塔頭の稲荷山
徳恩寺を
別当としたという。また、社領は後に
神主毛内十太夫に与えたとある。
稲荷宮と
徳恩寺の関係は社領の宛行(あてがい)先が変わった時になくなったものとみられる。「
津軽俗説選」(弘図岩)は、
稲荷宮の鍵は
常源寺にあって、
稲荷宮に留め置くと
常源寺へ飛んで帰るという話を伝える。同宮は為信に滅ぼされた
小山内讃岐の
和徳城跡にも比定される。毎年、二月の初午には藩より供物が献じられ、また毎年五穀成就の
祈祷が命じられた。
神主毛内氏は紀伊国の出身で、慶長年間(一五九六~一六一四)に
稲荷宮を預かり、四代の時に山辺と改姓した。正徳三年(一七一三)、社領一二石の寄進を受け、合わせて一五石となり、大社の列に加えられた。信政は、明暦三年(一六五七)の
江戸大火の時、和徳稲荷と名のる老人の道案内で
柳原中屋敷へ避難したところから、これを信仰し、
津梁院(現東京都)境内に和徳
稲荷宮を勧請したらしい(篠村正雄「
津軽信政の稲荷信仰について」『市史ひろさき』八)。
図227.和徳稲荷神社