八代藩主信明(のぶはる)は、天明四年(一七八四)から寛政三年(一七九一)に及ぶ「在国日記」(国史津)を書き残しているので、特に大飢饉で餓死者八万人以上といわれる天明四年(一七八四)と、信仰面の記事のある同五年・同八年をみていくことにする(資料近世2No.四二三)。
正月元旦の暁七ツ半時(五時ころ)に起床し、六ツ時(六時ころ)に大紋姿で城内の神と先祖の位牌を拝み、それから上の廊下で岩木山を拝んでいる。天明四年八月二十五日には長袴を着し、長勝寺・報恩寺・本行寺の廟所に詣でているが、本行寺には六代信著の側室円授院の廟所があり、この年四三回忌に当たるのでそのための参詣とみられる。先祖の回忌を営むのは藩主家の当主として当然のことだが、大変心配りをしている様子がうかがわれる。信政の命日には高岡霊社に、初午には城内の館神である稲荷宮に参詣した。天明五年には庚申待(こうしんまち)をしている。医者を相伴に夜食をとっているが、夜四ツ時(九時半ころ)に寝ているので徹夜はしていない。庚申待は三尸(さんし)の虫が天帝に我々の行動を告げるので夜通し起きているのが通例だった。天明八年には暮六ツ時(七時半ころ)に城内西湖の間に大黒天の画像をかけ、酒・肴の夜食に医者を相伴させ、甲子待(かっしまち)をした。甲子待は七福神の中の福神・大黒天(だいこくてん)を祀り、深夜まで起きていて祈願するものであった。
天明の餓死者については、側近の者を在方へ遣わして死体を片付けさせ、最寄りの寺で供養するように指示している。信明の生活をみると、先祖を大切に取り扱うとともに、餓死者の供養や伊勢太神宮への供米を指示している。一方、庚申・甲子待は庶民の間にも広く行われてきているので、信明の信仰というよりも風俗習慣として行ったものであろう。