断髪

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明治の新生活で最も革新的な風俗といえば、洋服断髪であろう。洋服断髪も、わが国では幕末の洋式調練を受けた兵士から始まると言われるように、明治の初年に軍人や官員がまずこの新風俗を採り入れ、次第に一般にも及ぶようになったのである。
 弘前では、明治四年十月に東北鎮台(仙台)の分営が設けられ、士族から募った八〇人で師範修業生を組織して、フランス式の軍事調練が始まった。彼らはすべて洋式の軍服を着け断髪したので、これがこの地方の新風俗の先駆けであった。
 断髪が一般に行われることになったのは、明治四年八月の太政官布告で、散髪脱刀勝手たるべき旨が公布されてからである。そのころの流行歌に、「半髪頭を叩いてみれば、因循姑息の音がする。惣髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする。ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という歌があって、断髪してザンギリ頭になることが開化のシンボルであり、文明人の資格であるかのようにまで言われた。
 当時の男の髪型は、右の歌にもあるように、大別すると半髪・惣髪・ザンギリの三とおりである。半髪というのは額から頂きにかけて広く髪を剃り上げるもので、野郎頭といったのに当たる。それにも小鬢(びん)のあるものと、小鬢をつるものの別があった。惣髪は額の月代(さかやき)を剃らずに全体の髪を伸ばしたもので、これにも髪を結ぶものと、髪を外して後ろに下げたものの二様が見られた。それからザンギリといっても、名のとおり短くいがぐり頭にしたものと、撫(な)でつけにして髪の長いものがあるというふうに、いろいろ過渡期の混乱が甚だしかったようである。
 明治四年に、弘前では本町一丁目に官所と称して大庄屋詰所があった。ここに詰める大庄屋と言われる人々は、新しい世の中の指導者としての立場上、率先して断髪を実践し、珍奇な新風俗に赴かなければならなかったらしい。その模様は次のように伝えられている。
天窓(あだま)はざんぎりにして断髪と名づけ、白き棧尺にまったの袴を着、鳶合羽、こうもりを手に持つ。その往来を見るに、いかんとも言い様ない異風にて、市中通り候へば、小児見るものみな大庄屋さんなりと、見る人々毎にも目覚ましかりし次第なり、これ当管内ざんぼうの始めなり。
(『広船日記』)

 しかし、長い間結い慣れてきたちょんまげの習慣は、新政府の訓令ぐらいで容易に改まるはずのものではなかった。まして、中央から遠く、生活様式の因習性の強いこの地方ではなおさらのことである。『郵便報知』の明治五年の記事に、「秋田ヨリ北ニハ士族一人モ断髪セズ」とあるが、確かに一般の実情を伝えたものであろう。政府は、諸政一新のために、まず人心の刷新を図る建て前から、さきの布告による断髪励行を強く打ち出して、各県に指導啓蒙を勧めた。六年三月には県から次のような告諭が出ている。
  男子断髪ノ儀ニ付左ノ通リ告諭候事    (明治六年三月八日)
夫、人ノ頭脳ハ精神ノ寓スル所、毛髪ヲ生ジテ之ヲ擁護スルハ、自ラ造物者ノ然ラシムル所ナリ。然ルニ中古以降、戦国ノ余風半髪ノ者多ク、タダニ煩冗ニ苦シムノミナラズ、帽子ナクシテ寒暑ニ暴シ、不測ノ病ヲ醸スモ恬トシテ怪シムヲ知ラズ。況ヤ万国交通ノ時ニ当リ、海外各国ヨリ之ヲ視ル時ハ、皇国中野蛮アルノ謗ヲ免カレズ。豈慨歎ノ至リナラズヤ。管下四民男子タル者ハコノ意ヲ了得シ、速カニ半髪剃頭ノ陋習ヲ去リ、毛髪ヲ截リテ其ノ身ヲ保全シ、主治隆盛ノ美風ヲ表シ候様致スベシ。尤モ婦女ハ風躰自ラ男子ト異ナル者ニ付、断髪致候儀厳禁タルベク候事。
附、児ヲ生メバ男女ニ拘ラズ生毛ヲ剃候儀一般ノ風習ニ候処、是又天然ノ擁具ヲ失ヒ、其身ノ健康ヲ害スル事少ナカラズ、自今コノ陋習ヲモ改候様致スベク候事。
(前掲『青森県史』第八巻)

 この告諭は、おそらく中央政府からの通達文そのままであろうが、これで見ると断髪を奨励する趣旨は、万国交通の新時代において野蛮の非難を受けぬように、しかも人体保全の健康上からというのであった。漢文調の候文体の中にも「頭脳」や「精神」などのような新しい熟語を用いていて、時代の風潮がうかがわれる。
 文中に婦女の断髪を厳禁する旨を述べているが、東京あたりでは断髪令と同時に気早い女性で髪を切った者があったから、特にこの点を戒めたもので、この地方にはそうした実例はなかったと思われる。
 この告諭に基づいて、戸長がそれぞれ断髪を説諭し勧告して回ったものであろう。『広船日記』に、「明治六年四月頃、弘前町々の店、手代の子供年令二十才以下不残断髪いたし候。この頃の仰せに従ひ、追々蛇帽天窓に可相成の心入より生じたる事にて、目覚しかりし次第なり」とあって、断髪に関する限り町方が先鞭をつけたようである。
 なお、『郵便報知』四七号(明治六年四月)に「青森県下金子某より来書に、当三月十(ママ)七日男子断髪可致の御布達ありて、戸長より説諭に及びしに、一昼夜にして九分通り断髪、在村も過半に至れりと」とあるのは、弘前か青森かはっきりしないが、果たして実情であったかどうか。断髪がそれほどはかどらなかったと思われるのは、翌七年五月十二日に再び告諭が出ているからである。それによれば、「未ダ依然半髪ノ者モ有之、中ニハ髪ヲ断候ヘバ宜シキ事ト相心得、風姿ノ醜美、日常ノ便否ニ関セズ、猥ニ裁断致シ、却テ半髪ニ劣レル見ニクキ頭髪ニ相成候者不尠」によって、「右等ノ者ハ早々相改メラレ、半髪ノ者ハ早速断髪致シ一般善良ノ美風ヲ表ハシ候様、村吏等身ヲ以テ先立チ、内洩レナク懇切ニ可致告諭候事」とある(前掲『青森県史』第九巻)。
 このように、たびたびの布告で大勢の赴くところ次第に断髪になっていくのであるが、頑(かたく)な者の中には髷を切ることを嫌って肯んじない者も多かった。上町の佐々木多吉平川江山、仲町の小田桐友平らのように、大正に入っても依然断髪せず、いわゆるニシ髪(ちょんまげのこと)を結ったまま生涯を終えた人も少なくない。これらは新風に就くことを潔しとしない単純な反骨精神のほかに、昔の断髪忌諱の特殊な意識が強く働いていたことも知らなければならない。昔は、百両の金を借りても坊主になれば借金を棒引きにされるとまで言われ、髪を切ることは死ぬほどの屈辱と教え込まれていたからである。大正十年に、かつて髪結師をした万延年間生まれの老人のもとにまだニシ髪を結いにくる顧客が外瀬に一人、下町に一人あったと伝えられている。

写真36 ちょんまげ姿の親方町消防団
(明治15年)

 さて、ザンギリ頭になった者でも、壮士芝居に見るような真中から分けたいわゆる「分けじゃんぼ」という髪型が長い間行われた。これも結髪に通ずる断ちがたい執着から生まれた特殊な型と見るべきで、明治の過渡的な特徴を物語る新風俗だったのである。