市制・町村制の公布

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政府は、明治二十一年(一八八八)、市制・町村制を公布し、さらに二十三年府県制・郡制を公布して、明治憲法体制を支える地方自治制度を明らかにした。この地方自治制を支えるのは、名望家と言われる地域の有力者が支配する、政府の政策に忠実で、それをこなす行政能力・財政能力を持つ有力町村でなければならない。そのため、一定の広さと人口を持つよう町村合併が実施された。全国の町村数は五分の一に激減した。しかし、町村の自立に必要な財源は保障せず、入会林野は地方に返さず、新税は禁止され、地租国税の付加税も制限されたままだった。そのため、財源を持たない町村は戸数割、家屋税などに頼らざるを得ず、貧民への重課傾向がその財源をいっそう乏しくさせた。
 だが、明治二十二年四月二日付の『東奥日報』の社説は次のようにこの市町村制自治の発足を喜んでいる。
「嘻呼(ああ) 我が青森県下五十有余万の同胞兄弟よ、兄弟は四月一日に於て胸中果して如何なる感想を抱かれたる乎、昨一日は、即ち去る二十一年四月十七日を以て我が邦三千八百五十有余万の人民は市町村自治政(ママ)を許可せられたる千歳一時の幸運に遭遇せし、其施行の日なり」
 「今や市町村ハ法律上一個人と同一なる権利・義務を有するものにして」「之れを昨日の已前に比してハ市町村各自其権利を拡張し其幸福を増進せしめんとする、其懸隔差異、雲淵雲泥あるは、啻(ただ)のみならず決して同日の論に非らざるべし、昨一日は将に市町村自治の美政に浴せんとする発程日なり」
 しかし、本県における町村合併の作業は官僚的、秘密主義で、その趣旨を啓蒙し、住民の協力を求めることはなかった。郡によっても取り扱いが違い、揣摩臆測(しまおくそく)が行われ民心が落ち着かず、『東奥日報』は、情報を公開し、正当の順序方法をもってなせと論説を書いている。鍋島県政は学区の問題、水利の問題、富裕村と寒村の問題、財産の問題など、紛争が起きそうな問題を郡役所などと情報交換して、ますます慎重主義で前後策に腐心した。
 新潟県などでは、明治二十一年五月に県庁内に書記官を長に一八人の「市町村制実施取調委員会」をつくり、翌年六月「市町村制実施要綱」と「町村合併標準」を発表、合併の最終期限を二十二年十一月末日にすることなどを示した。そして、まず郡長が案をつくり、取調委員会が査定し、委員会案を郡下の戸長諮問委員会にかけ、さらに町村総代の意見を徴した上で委員会に答申、委員会は郡長の実施見込案を実地調査し、支障がないと見なせば決定する。町村住民は郡長に対する意見申述権が与えられたにすぎないが、手順はそれなりに踏まれていた。
 青森県でも、南津軽郡大杉村のように、明治十六年の戸長役場時代に浪岡村の行政域に編入されたのが、県に運動して五ヵ村で独立した例もある。大杉村では工藤善太郎らが博愛社という結社をつくり、自覚的に活動していた。