地租軽減運動は、初期議会で地価修正を要求する西日本議員と税率軽減を主張する東日本議員とに分裂し、地価修正派優位のうちに推移、日清戦争によって終わりを告げる。これは、運動の主体が十年代の自作農・小規模手作(てづくり)地主層から、小作米販売者として米価に関心を持つ寄生地主層が運動の主体となり、その政治勢力を拡大したということである。そして、日清戦争後の戦後経営期においては、地主層はもはや地租増徴反対で運動を組むしかなくなっていた。
戦後の米価騰貴の中で、地主はもはや地租の軽減を求めなかったが、増税には反対した。しかし、政府は、戦後の軍拡政策を進めていく上では、最も安定した歳入源である地租の増徴案を考えた。第二次松方内閣は明治三十年(一八九七)末に提出し、与党の進歩党にも反対されて衆議院を解散したが、直後に辞職、続く第三次伊藤内閣も増徴案が二四七対二七の大差で否決され、再び衆議院解散となったが、三十一年六月自由党と進歩党は合同して憲政党を組織したため伊藤内閣も倒れ、次の第一次大隈内閣(憲政党内閣)は党内分裂から予算案も提出できず、四ヵ月で内紛・分裂で総辞職、次期内閣の第二次山県内閣は、憲政党と憲政本党に分裂したうちの旧自由党系の憲政党と提携して地租増徴の実現を図り、三十一年末の第一三議会で同法を実現させた。
このとき、弘前出身で自由民権運動以来の政党指導者菊池九郎は憲政本党で、山県内閣と憲政党の星亨を批判して堂々の論陣を張った。菊池は軍備の拡張を国力に相当する程度に縮め、小政府とし、国本となる農民を健全とさせ地方自治の進捗を図れという。そして、地方利益の誘導による党勢拡張という日本型政党政治をつくった星亨を「殊に賤しむべし 多年口に三大自由の伸張を唱へ、儀式ながらも政見一致の宣言を以て提携したる彼れ自由派か」「立義相反し政見亦固より相容れざる藩閥内閣の従属たるに甘んぜんとは」と怒った。
また、新聞『日本』の陸羯南も、日清戦争後の戦後経営は軍人政治で、しかも御用商人・株屋と野心ある政治家・星を典型とする者たちの結託でもたらされ、「戦後の人民は四年を経て未だ何等の恵をも蒙らず、唯だ物価の騰貴と負担の増進に眉を顰(ひそ)むるのみ」と言う。そして増税問題については、「夫れ国運進歩の恩沢を被ぶること最も薄き者は農民にして、而も国運進歩の費用を献ずること最も多き者は農民社会」と同情し、同じ兵役義務三年にしても、商工社会では見習奉公で、農家では働き手を失う血税である。村の堤防は封建時代より劣悪、二十数年前の地租二・五%引き下げの時、明治天皇は「深ク休養ノ道ヲ思フ 更ニ税額ヲ減ジ」と地租の偏重を匡済せんとしたのに、商工業が当時の幾倍に発達せる今日、なお農村に重い税を負担させようとしていると反対論を展開した。
このころ、弘前地方の政治家は、地主としての利害から地租問題では共同歩調をとるが、政党としては弘前市は大同派自由党、中津軽郡は改進派だった。