日清戦争と郷土部隊の出征

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明治二十七年(一八九四)、朝鮮で甲午農民戦争が起こり、朝鮮は清国に出兵を要請した。日本もこれに対抗する形で軍隊を朝鮮に派遣した。日清両国の緊張は一気に高まり、それは各地に波及した。弘前市は戦場に最も遠い位置にあったが、それでも清国打倒の動きがあった。
 当時、弘前市出身の兵士たちは仙台にある第二師団に属していた。日清間の緊張が高まると、弘前市内でも菊池九郎ら有志者が弘城義勇団の組織を計画し、開戦の時は従軍すべきことを議決している。しかし義勇団は有志を募った私的な団体であり、政府が制度として定めた徴兵制に基づく軍隊組織と相容れず、支障が生じるようになった。そのため郡役所などが町村宛に義勇団の組織を辞めさせるよう督促していた。
 それでも義勇団を組織しようとする動きは止まらなかった。弘前市内でも寺井純司ら数十名の有志が発起人となり、七月十一日に義勇団組織開催のための集会を開いている。集会では自由党改進党ともに政治的対立を止め、一致して団体の成立を約束し、檄を同県下の八郡に飛ばして大いに同志を糾合するよう議決している。また東奥義塾の学生も義勇団を組織し従軍を願い出た。陸軍当局が軍夫を募集した際にも、軍夫として戦地に赴きたいとする団員が続出した。けれども陸軍当局は正規の徴兵と募集以外に、義勇団員たちを任意に軍夫とすることに否定的だった。他日兵員を補充する際に不都合を生じるからである。これらの事実は、当時の弘前市に日清戦争を通じた戦争熱が大いに高まっていたことを物語っていよう。
 明治二十七年(一八九七)八月一日、日清戦争が開始されると、県内各地で戦争熱が高まった。八月十日には青森町(現青森市)で青森報国会が結成され、軍資金の献納運動が始められた。報国会は軍資金・軍需品などの献納運動を通じ、出征軍人の家族を保護し、貧困者を扶助することを目的としていた。地域の人々が軍人扶助政策を支えるという動きが、当該期の各地域内に芽生え始めていたことがわかる。この動きは弘前市や青森県の場合、雪中行軍遭難事件を通じて浸透し始め、日露戦争を経て確立していったと思われる。
 雪に覆われる地域が多い青森県内の各地からは、軍用藁靴であるゴベやハバキなど、大陸での越冬に備えた軍需品の献納運動が盛んだった。寒冷地対策としての軍需物資、とくに被服などの改良は遅れており、寒冷地での戦いに備えた装備や越冬対策は充分に実施されなかった。その結果は八甲田雪中行軍遭難事件で露呈されることになる。軍当局が越冬対策や装備に関心をもち、その改良に着手したのは日露戦争前後になってからなのである。弘前市出身の将兵も日清戦争に出征している。当時まだ第八師団はなく、弘前市出身の将兵たちは仙台を拠点とする第二師団に属していた。第二師団の召集は九月二十五日であり、十月六日には後備軍が召集された。軍馬・軍夫も多数募集され、多数の兵士が仙台に集中した。青森県の郷土部隊である第五連隊も仙台に召集され、大本営が設置された広島に移動していった。
 その後、明治二十八年(一八九五)一月、大本営は威海衛(いかいえい)の要塞を占領すべく作戦を練り、本国に控えていた第二・第六師団の残部部隊を出征させた。第二師団は第二軍に編入され、一月下旬にかけて山東半島の栄城湾に上陸した。そして二月二日、日本軍は威海衛の要塞を占領した。この占領により戦局は日本に有利になる。その意味で弘前市民を含む第二師団の功績には大きいものがあったのである。
 戦争が終了し各部隊が続々と凱旋(がいせん)し始めたが、郷土兵が属する第二師団は戦闘終了後、台湾平定作戦に転用された。そのため凱旋が遅れ、明治二十九年(一八九六)五月、ようやくすべての将兵が仙台に凱旋することになった。弘前市民は郷土兵の所属する歩兵第四旅団の凱旋を心待ちにしていた。四月六日、弘前市会は第四旅団の歓迎を催すよう議決している。当時、弘前市出身の兵は青森町にある歩兵第五連隊に入営していた。第四旅団が第五連隊に本部を設置していたからである。それでも弘前市民は郷土兵の帰還を心待ちにし、大歓迎したのである。

写真75 第5連隊の中国上陸