県庁を青森に取られて次第に衰へた津軽歴代の城市、商業も工業も活気を失つて、半歳を深雪の中に埋められる淋しい市街も、日清戦役後、第八師団の増設と共に新しい活動の気は到る処に充ち渡つた。剣鞘を鳴らして勇ましく街道を歩み行く青年士官の群は、尠(すくな)くとも古く衰へた屋敷町の津軽少女の眼を聳(そばた)たしむるに十分であつた。
(田山花袋『生』第一八章、明治四十一年刊)
こうして、師団の設置によっておびただしい外来の転住者と物資の流通が招来されるようになったために、ようやく弘前はもの皆生気を帯び、諸事面目を一新するまでになったのである。こうした市中の新しい気運は、まず士族屋敷の町並みに現れた。
士族の人々にとっては、旧習古格を守るばかりでなく、祖先伝来の家を手離すことは最も恥ずべくいやしむべきことでもあった。そうした信条も、しかし世の推移の前には是非もなく、三十一、二年ごろから、士族の家は目立って軍人の貸家に変わっていった。また、士族の広い空屋敷にも、新しい移住者に提供するための家作が建ち、数年も経たぬうちに空地がなくなるだろうと噂されるまでの勢いであった。中でも在府町や相良町あたりでは、士官の居宅になった家が二十七、八軒もあって、馬屋からは軍馬のいななきが聞こえたりもした。したがって、土地、建物の価格が急激に騰貴して売買も頻繁になり、住む人の異動も絶えなかったので、郵便配達にも戸惑うことが多かったという。
新たに弘前の玄関となった停車場と、莫大な人員を抱えた軍隊の存在が、市の中心部を置き換えることになったのも当然なことである。商業の中心地域が従来の本町から、土手町・元寺町・百石町にその繁華を移したのもこのころであったが、三十七年の本町金木屋呉服店の閉店は本町の衰退を決定的にしたといってよい。
写真122 親方町から本町を望む
兵営が設けられた市の南郊、清水村の富田や館野、桔梗流一帯の田園荒蕪地が、軍靴によって開かれ、そして新しい市街地に変わっていった。また、兵営に近接する富田町、新寺町、住吉町あたりには、将校や下士官のための下宿屋、そして兵隊相手の飲食店、小料理屋、各商店が並び建ち、殊に師団通り・富田大通りから住吉町にかけての界隈は活気あふれる新興の町になった。
鍛冶町、銅屋町、桶屋町など藩政時代からの職人町も、新たに軍用品の注文を受けて活況を取り戻した。また、毎年の入営・除隊の時期になると、各隊の壮丁とその家族たちで市内の旅館は盛況をきわめ、各商店のにぎわいもひととおりでなかった。こうして市中の繁華とその推移は、数年の間に「今は昔」の感を深めずにはおかぬものがあった。
このころ、町に増えたものは、「第一に軒ランプの数、人力車乗りの客に高利貸、借家に下宿屋、茶店に仕立屋、俄か紳士に料理店の客、貸座敷の数に東京蕎麦、それに昨今ならばラムネと氷水屋、ところてんは富田に限れど、うけ売りは市中到る所にあり」(『東奥日報』明治三十三年六月十五日付)とあるように、これが新興の気運盛んな当時の弘前の景況であった。
写真123 市中の風俗
(明治38年「弘前風俗画報」)
また、和徳町、松森町、駒越町、浜ノ町、茂森町など、それぞれ農村の出入り口に当たる町筋は、呉服商、古着屋、小間物屋、荒物雑貨店、飲食店などが立ち並び、農家の顧客を相手に繁盛していた。殊に和徳町は年々荒物の移出が盛んになって、三十五、六年頃には荷馬車の通行も困難なほどのにぎわいを見せたこともあった。
明治末期の市街の印象を次のように述べたものがある。
雨の日停車場から代官町通りを歩き行きたるものは、先づ泥濘膝を没するなどの語は、殊更にこの市のために作られたかの感に打たるる。やっと土手町に入れば、両側の廂自由に通られる様に造られてあるので頗る便利である。所が二三日も天気が晴れつづくと、今度あべこべに黄塵百尺たる詞はまたもやこの市の専有に帰する。それから弘前の夜景は、本町・元寺町はこの地目抜の箇所だけに、料理店・旅人宿・銀行・警察署・郵便局・芝居座などあり、夜行に杖の必要も覚えぬが、土手町・松森町ないし和徳は鼻先ご用心と言いたい位云々。
(『弘前新聞』明治四十年七月七日付)